井出

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)の井出のネタバレレビュー・内容・結末

3.9

このレビューはネタバレを含みます

基本的にカットを切らないことの理由は、観客の集中をきらせたくない、つまりその場面でかなり強調したいことがあるということである。
この映画で強調したかったのは、とにかく撮影技術、映像効果、音響、脚本、演技ということだろう。カットを切らずにCGとリアルの境界を作らないようにする、カメラの裏側で段取り通りに用意しておく、役者はそれを全て頭に叩き込み、妥協も失敗も許されない、まさに舞台のような緊張感のなかで、セリフを言う。映画を作る人たちが全力出してみましたみたいな映画だった。ちょーすごすぎる。
しかし考えてみれば誰得なの?この映画。観客は素晴らしいと、感嘆して、拍手するだけ。エマストーンの長ゼリフのあとのドヤ顔を見れば、誰が一番得だったかはすぐ分かる。勃起しているのはやはり、作る側ってことか。まあ、本来はそういうものなんだろうけどね。置いてかれたよ。
そもそも、技術や演技は何のためのものだったんだっけ?映画って誰のためのものだったんだっけ?難しい問いだけどね。他の人たちレビューを見ればわかることだけど、技術や演技のことばかり取り上げられてて、話についてはなかなか言及されないってことはやっぱり、オモテ面のメッセージがないがしろにされてるってことでしょ。技術と内容が調和できていない証拠でしょ。
カットなしの意味も、もう少し考えるべきじゃないか?カットを切らないということは、人為を意識させないようにするためだったり、リアルや臨場感を追求するためだったり、その時、その場でしか起こり得ない芸術をカメラに写しこもうとするためだったりするわけだけど、わざわざしっかりコントロールされた仮想世界を、ノーカットで見せるというのは、どういうつもりなのだろう。確かにすごいけど、褒めてあげればいいの?って思っちゃわないか?まああまり考えずに見た方が楽しいってことか。そんな映画が作品賞ねえ。
アルゴでも若干思ったけど、アカデミー賞が内輪ウケがいいのんが選ばれてる気もした。ちょっと置いてかれるとこあったよね。
カット切らなくて最高だったのは、ガチ銃の引き金を引いてから、鼻を撃ち抜くまでの緊張感。震えたね。
空想と現実の境界や、カメラが登場人物の視点なのか、客観なのか、透明人間なのかの境界、場面と場面の境界、時間の境界、音がリアルと音なのか、編集で入れてるのかの境界を無くしていたのも、やっぱりすごかったな。最後も、ガーゼでできた「マスク」を外して外に出るくせに、飛んでるっぽい娘の反応。謎だね。
とにかく、エネルギーが凄まじい映画ですけど、そのスタンスの好き嫌いは別れるところだと思います。
井出

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