YasujiOshiba

エンリコ四世のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

エンリコ四世(1984年製作の映画)
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シチリア祭り(29)

備忘のために

- 舞台はシチリアではないけれど原作がピランデッロ。ピランデッロの重々しさに、マストロヤンニのローマ風の軽さを加え、スパイスにチュニジア生まれのカルディナーレと、その娘フリーダ役の若いモロッコ生まれの Latou Chardons 、そんな作品。

それにしてもマストロヤンニとカルディナーレ。このふたりの競演としては、ボロニーニ&ブランカーティの『汚れなき抱擁』(1960)があるのだけれど、こっちは未見。祭りの30回目はそれかな。

- この映画を見たかったのはシャーシャの評論集『La corda pazza(狂気のネジ)』(1970)のなかのタイトルと同名の評論に、ピランデッロのセリフが引用されているから。それはこんなセリフだ。

「いいだろう、そうさ、わたしはキチガイだ。それならば、ああ、跪くがよい!わたしの前にみな跪けと申しておる。そうだ。それから額で三度地面をこするのだ。みな跪け、キチガイなるものの前では、かくあらねばらなぬのだ」"E via, sì, sono pazzo! Ma allora, perdio, inginocchiatevi! Vi ordino di inginocchiarvi tutti davanti a me – così. E toccate tre volte la terra con la fronte! Giù Tutti, davanti ai pazzi, si deve stare così". (p.146)

シャーシャがこのセリフの前に引用したのは、同じピランデッロの戯曲「鈴なり帽子 il berretto a sonagli 」から引用されたこんなセリフだ。

「私たちは誰も頭に時計の3つのネジのようなものを持っているのです。本気のネジと、礼儀のネジ、そして狂気のネジですな」"Deve sapere che abbiamo tutti come tre corde d’orologio in testa. La seria, la civile e la pazza". (p.146)

「La corda pazza(狂気のネジ)」というのが、人間が文明的な生活を送るための「La corda civile (礼儀のネジ)」が保てなくなり、なんとか「La corda seria (本気のネジ)」でコントロールしようとするが、それでもダメな時に発動するような、いわばシチリアに典型的な狂気についての記述だとすれば、この映画の原作となった「エンリコ4世」のセリフのほうは、そんな臨床的なケースから、もっと人間の実存問題に深く踏み込んだ内容を持っている。それがシャーシャの考えだ。

- 実はシャーシャはこの「狂気のネジ(La corda pazza)」という短いエッセイで、パレルモで19世紀の前半にヨーロッパでも群を抜いて先進的な精神医療病院を運営したピエトロ・ピサーニ(1761-1837)のことを紹介している。

このエッセイが書かれたのは1969年で、フランコ・バザーリアの精神病院改革が道半ばで、バザーリア法はまだできていないころのこと。シャーシャはバザーリアの改革にふれる。そして、「精神病者や、すべての社会的に排除された患者たちには、これまでずっと、本気で責任をもって取り組み姿勢が欠けていた(mancanza di serietà e di rispettabilità, da sempre riconosciuta al malato mentale e a tutti gli esclusi)」というバザーリアの批判を引用すると、すでにピサーニはそうした患者たちに近づいてゆくような医療をしていたと記している。(p.152)

こうした精神医療の問題に、マルコ・ベロッキオも取り組んできており、実際にバザーリア改革をフィルムにおさめようとするドキュメンタリー『Matti da slegare』(1975)を撮っていることは、ここで思い出しておきたい。

- もうひとつ「狂った」を意味するイタリア語の pazzo のこと。実はイタリア語にはもうひとつ matto という言葉があり、どちらも「狂った」を意味している。ここでエンリコ4世/マストロヤンニが使うのは「pazzo 」だが、たとえばフェリーニの『道』に登場するのは「il matto 」(リチャード・ベースハート)だ。

語源的な違いとしては pazzo はラテン語 pactiare (ぶつける)から来ているようで、ようするに頭をぶつけたことで「おかしくなる」ということらしい。なるほど、エンリコ4世/マストロヤンニは馬から落馬したわけだ。一方の matto は mat(t)us 「酔った」あるいは maditus (濡れた)から来ているらしい。こちらはあきらに酒を飲んで「おかしくなった」というわけだ。

- ラストシーンだけど、原作と映画の違いが面白い。原作は実際に友人を刺し殺すことで、あの城に残れるように仕向けるわけだけど、映画はご覧になればわかるが、それこそ映画の小道具を使うわけだ。そのあたりのお遊びが軽やかで楽しい。シチリア的な生真面目さ serietà に、マストロヤンニのローマ的なおちゃらけ buffonosco な雰囲気が加味されていると言ってもよいのかもしれない。

- 日本語版で見てから、PAL を見たんだけど、カラーが全然違うな。PAL が圧倒的に良いと思う。
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