しゅん

レヴェナント:蘇えりし者のしゅんのレビュー・感想・評価

レヴェナント:蘇えりし者(2015年製作の映画)
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木々の圧倒的な物体感。蠢く水の中で聳り立つ木にも、吹きすさぶ雪の中で倒れ行く木にも、迫りくるような「モノ感」がある。

この「モノ」から伝わってくるメッセージは、生きてようが死んでようが木も水も動物も人間も「モノ」であることに変わりなく、全てが平等に無価値である、ということだ。自然という名の荒廃した虚無が、「ヒト」が「ヒト」たる所以であるところの人間性を蝕む。そんな虚無の極北の中でディカプリオ演じるヒュー・グラスは、復讐という極めて人間的な、「ヒト」的な動機を熱量に替えて生き延びる。この映画はグラスとトム・ハーディ演じるフィッツジェラルドとの戦いだけでなく、全てを虚無化する「モノ」に対して「ヒト」の復讐心がどこまで生き延びるかの戦いも同時に描いている。

復讐することに一体なんの意味がある。そんな問いは誰かが言葉にせずとも画面に映し出された水や雪や火がすでに発している。そしてこの問いは、映画を撮るという復讐と同じくらい「ヒト」的な行為が常に虚無との戦いであることも反映している。映画なんて子どもだましのケチくさいものに対してムキになって、なんて馬鹿らしいのだろう。内なる声との戦いが画面から響いてくるようだ。

鐘も鳴らない破壊された教会の中では、全ての救いが幻だ。神はありのままの自然の中では無力だ。それでは何故この映画を観た後で、復讐を遂げる為だけに生き延びることを、膨大な金額と人間の労力を注ぎこんで映画を撮り続けることを、観客である私は肯定したいと思うのか。その理由はディカプリオやトム・ハーディをはじめとする俳優陣の瞳の中にある。脚本上の結末だけで言えばグラスもフィッツジェラルドも(ヘンリーもホークもブリッジャーも)全てを失った敗残者だ。彼らはみな「モノ」に変わり果てていく。だが、彼らの瞳はどんな虚無にも奪われないような生命を宿している。そのまなざしが残すものは何にも奪われはしない。そして、どんな残酷な光景も、どんな無意味な「モノ」も鮮やかに焼き付けようとするカメラ。最後のシーンで、カメラの瞳とディカプリオの揺れる瞳がはじめて真っ正面から対峙する。「ヒト」の瞳と「モノ」を映す瞳が出会うことによってこの映画は終わりを迎えることができる。バードマンの100倍は好きな映画。
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