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沈黙ーサイレンスーのandyのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

2時間40分の長さを感じない秀逸な作品でした。
原作はだいぶ前に読んで、内容も忘れていました。

信仰を貫くことを嫌というほど考えさせられました。
「沈黙」は神が苦難を前にした信者に対して何も答えてくれない、
その嘆きを表したものです。

パードレのロドリオも絶望の淵で何も答えない神に絶望します。
しかし、私には神は一度たりとも沈黙していなかったと思いました。
神は常に語りかけていたと思います。
それをロドリオは聞くことができていなかったのではないか、実は神と共にいなかったのではないかと思いました。

吊るしの拷問にかけられた信者を前に「棄教せよ!」とロドリオが叫びます。
違うんです、ロドリオ自身が信者と共に棄教するんです。
それが信者と共にある司祭の務めで、
それは司祭が神と共にあると同義だと思いました。
もし、その場にイエスがいたなら何の躊躇いもなく棄教するでしょう。
そうロドリオが素直に腹の底から思えることが、神と共にあるということだと思います。
ロドリオは棄教の瞬間に、初めて神の声が聞こえたのだと思います。
神はずっと語りかけていたのです。

ロドリオの振る舞いに、神との一定の距離を感じていました。
どこかロドリオの外にいるような感じです。
外にいて、何かあればやってきてくれるような。

私はクリスチャンではないので、よくわかりませんが
信仰って何なのか考えさせられました。
神との関係性の中で、
神を媒介にして自分心を見つめることなのかと思いました。
そして信仰の深さは、自分への問いかけと比例してきます。
その中で神の声は聞こえてくるのではないでしょうか。

幕府のキリスト教の禁教政策で、あるものは殉教し、ある者は棄教する。
キチジローのように気軽に棄教を繰り返す者もいます。
何が正解で、誰が正しいなどはもちろんないです。
但し一つだけ、間違いないと思うことがあります。
それは、神は全てを赦すということです。
私にはロドリオが棄教の瞬間に、
神の赦しの意味を感じ取ったのではないでしょうか。
理由はうまく説明できないのですが、そんな気がするのです。


この作品で、もう一つ大切なことを教えてもらいました。
それは、何人も人の精神世界に、土足で踏み込んではいけないということです。
それは人間の尊厳そのものです。 
名もなき多くの切支丹が殉教していきました。
当然信仰を貫くということですが、
同時に自分の精神世界に土足で踏み込んだ者たちへの
自らの尊厳を欠けた抵抗でもありました。

逆の言い方をすれば、自分達の正しさに微塵の疑いを持たない者たちが
他人の信仰や思想に平気で介入していきます。
幕府の人間も、キリスト教を布教をしようとした者たちも
その意味では同類です。
歴史を紐解けば、ポルトガル・スペインの植民地政策の常套手段は、
軍隊を送る前に宣教師を送ることでした。
メキシコや南米はその作戦が奏功し、植民地にされました。
また、ポルトガルは奴隷政策、すなわち奴隷貿易を進めていました。
当時の幕府もその情報は把握していました。

ロドリオが亡くなって、
妻がこそっと十字架をロドリオの手の中に入れておきました。
どのような信仰を持とうが、その人の精神世界を尊重するという
メッセージのように思いました。
ロドリオ(岡田三右衛門)の妻は、そのことを理解していました。

もう一度原作を読み直してみようと思います。
andy

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