ゆずっきーに

沈黙ーサイレンスーのゆずっきーにのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

信仰と命の天秤、さらにはその奥に見える信仰と尊厳の天秤という二者択一の決断を迫られざるを得ない脚本。
テーマ設定として当然非常に興味深いものであるし、棄教に至るまでの宣教師の並々ならぬ葛藤を丹念に描いてくれるので説得力が段違い。生々しい信徒の天秤がこれでもかというほどのリアリティを伴って我々鑑賞者の眼前に立ち現れる。
スコセッシ監督はどうしてここまで近世日本の原風景を緻密に再現出来るのか?冒頭の自然音からのタイトルなんて常軌を逸した観察眼とセンスしか感じない。日本人が観ても当時の日本を舞台として物語に自然と没入できる、これは驚異的なことだと思う(ラスト・サムライみたいな例があるだけに)。

イエズス会のミッションを裏切る形で日本でのキリスト教は独自の変化を遂げてしまったというのが本作のキモとも言える。
「日本は沼」であり、教義が定着しない。それはアニミズムが脈々と受け継がれてきたからです、といった伝統主義的な解説もあろうが、隠れキリシタンたる民衆にとって宗教が現実逃避の手段にしかならなかったことがこの「沼」を育んだのだろう。本邦では、神は生きる目的そのものではなく、生きるための、そして、苦難に塗れた浮世から死という解放を手繰り寄せるための手段だった。死を受け容れようと信仰に近づくほどに弾圧=死にも近づくという皮肉。何のために宗教はあるのか、目的論的生を敬遠したこの国でしかし神は答を沈黙する。神の沈黙は解釈を生む。キリスト教でも宗派が分かれるが如く、信仰には幾通りもの形があり、それ故に信徒たちはその心境や境遇に依らず善く生きうるし安らかに死ぬ"ことが出来る"。命の幕切れに臨む瞬間の安寧、を何事によっても脅かされないためのハウツー・ハックとしての祈り。もしも教義が完全に定まり不変の物であったならば、踏み絵を踏んだ信徒が赦されなかったのだとすればーーー…
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