まつむらはるか

沈黙ーサイレンスーのまつむらはるかのネタバレレビュー・内容・結末

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

このやりきれない、分けることのできない思いは一体どこに流せばいいのだろう。

見終わったあとのどう解釈したらよいかわからない、善と悪にまったく分けることのできないこの心持ちをどう表現したらよいものか。
カメラが終始主人公を追いつつ客観的になるのは、一筋縄では解決できない、各方向から手足を引っ張られるようにして平衡を保つような不安定な『中立』の立場に立たせられるからだと思った。

神を信じ続けたキリシタンの人々の、その爪までもが土くれにまみれた手に心を打たれる。
しかし悪と思った大名を始め迫害をしなければならない役人側の疲弊と妥協と苛立ち、諦めもまたわからないでもない。
彼らも快楽や権力のために自分本位に動いているのではなくあくまで役所的に、そして日本という譲れない基盤のもとに相容れない百姓たちをいたしかたなく殺さねばならない。その気持ちもやりきれない。

特に変わり果てた師匠が登場した時の怒りと、その後だんだんと大人しく、師匠と共に日本側に立つことになったときの主人公の冷めた表情は、ある意味で夢を失い現実を見るかつて子供だった大人を見るような、見る側が傷つくような表情を見せる。

現在文化の違いを認めないということは反民主主義的で現代的でないと思われる、その文脈に則れば、迫害する側が悪である。しかし、宣教師は人類の平等を訴えるというよりはあくまで布教活動をしに来たのであり、異教徒を許さないという点においては役人側と同じであると言えるのではないか、むしろ役人側のほうがもっともらしい説得力のある言葉、つまり日本の風土とキリスト教は相容れることができない、ということを言っていた気がする。そのときとたんに善悪というものがわからなくなった。

それは主人公の迷いと悩みでもあり、どちら側にも立つことのできないことを私たち観客に共有させる。最後のショットは希望とも取れるしまさに真相は彼のみぞ知る。(私はあの映像はわかりやすすぎてちょっと好きではないのだが…)


モキチの賛美歌の苦しさといったらなく、凄まじい、本当に凄まじい魂だと思った。なぜこんな絶望の中で信仰を深めることができるのか?その一途さにはっとすると共になんて不条理なのだという気持ちも湧き上がってくる。

キチジローの、魅力的な人間が面倒な人間に変わる感じ、信頼を失っていく過程には目を背けたくなる。繰り返し繰り返し、彼は許しを請う。命欲しさに致し方ないが、こう何度も裏切り、それを悔いはしても命の惜しさに勝てないという意志の弱さがだんだんと見ている側を身勝手に苛立たせる。しかし自身があの立場でああならない保証がどこにあるというのだろう?