【歌ってみても他人事】
特集上映『オタール・イオセリアーニ映画祭』にて。
2015年作で、冒頭、監督出身の隣国ウクライナへの戦乱予感が刻まれている…と受け取ってしまうが、監督は延々繰り返される愚行のひとつとして、あの戦争行為を描いたらしい。
舞台は監督の、当時の現在地フランスで、フランス革命のギロチンショーから現代へ…架空の市街戦と略奪、そこから撮影当時のパリで、右往左往する人々までを点描している。
原題は“冬の歌”で、ジョージアの古い歌から取ったそうだ。冬が来て周りは萎びたが、歌ったっていいじゃないか!…という歌詞の思いを込めたらしい。
厳しい現実は変わらないが、ノンシャランと行こう!てところだろうか。でも、描かれる現実が淡々と厳しすぎて、そんな気分にはなれない。
監督の集大成とも言われる本作、ホントの狙いは鬱にさせることかもしれないし、現実と誠実に向き合って映画を撮ってきたのなら、むしろ鬱になるのは正直だと思う。
無力である映画が結局、愚痴で終わるのは、当然の帰結ではありますね。
そんなもんでしょと思う一方、本作の柱、肝、臍、というものがわからず、とりとめない気分で終わりました。面白い人物は居るが長くて飽きる。某作で言う通り90分にしてよ。
老いても恋をし、好人物だが武器商人…が中心になる等、人間の多面性を込めているのはわかる。でも、ただそれを描いても、人間がそうなのは、もうわかっているコトだしなあ。
監督曰く、そういう人物描写は“位格”らしく、キリスト教でいう三位一体と義は同じらしい。なるほど、虐殺略奪レイプ朝飯前のキリスト教徒が冒頭、当然出るのもそんなワケか。
でもさあ、ノンシャランとわざわざ他人事で描いても、何も変わらないと思うのだけど。
一部の面白い登場人物には、ある程度はつき合えました。
主人公風の老人は本人よりも、彼が迷い込む街角ジャングルがメチャよくて。まんまアンリ・ルソーの絵だ!ジャングル未経験の彼が描いた、想像上のそれを見事再現?しており感心したが…ナゼ現れてナゼああなったのか、即物的に終わらせるから余韻は残らない。
他にも、即物的出し入れのエピが多いが、映画の中心が不明なので、ふうん、で終わる。
主人公の悪友、頭蓋骨で“復顔”に熱中する拗れ具合は面白かったが、これもぶつ切り終了。
美人さんはまあ散らしており眼の滋養ともなりましたが、総じて人物には噛みごたえを感じず、むしろ登場しない人たちの方に、もっと面白いのいるんじゃ?と想像してしまった。
本作、黒澤映画でいえば晩年の『八月の狂詩曲』などと近く、監督枯れはじめ…という位置づけだろうか?(『まあだだよ』は、もういいよ、と思ってまだ、見ていない)
<2023.3.10記>