河

皆さま、ごきげんようの河のレビュー・感想・評価

皆さま、ごきげんよう(2015年製作の映画)
4.8
『群盗、第七章』の発展のような映画で、実際の出来事を比喩的に描いたものであり、ジョージアだけでなくフランスの歴史を組み込み、さらに体制以外の視点も同時に存在させたもののように感じる。描かれる全てが比喩的で、さらにそれらが複雑に絡み合っている。これまでのイオセリアーニの作品で繰り返されてきたモチーフも出てくるため、ある種集大成のような作品になっている。また、社会や歴史という視点以外にもイオセリアーニの個人史を反映したレイヤーもあるように思える。イオセリアーニの作品の中でも最も多層的で、以前の作品で描かれた全てが含まれているような広さがある。

『群盗、第七章』と同様に、盗むことが主軸に置かれていて、体制は人々の家を奪うが、体制もまたいつかは新たな体制から家を奪われるという繰り返しが歴史であるという歴史認識も共通する。フランス革命の先に市民社会があり、その先に近代化や資本家の誕生があり、資本家の誕生の先にロシア革命がある。そしてその先にはソ連によるジョージア占領があり、ジョージア内戦がある。そしてそれら移り変わりの中で家を失った人々が生まれていく。

主人公と親友は没落貴族であり、古城を所有しているが、その維持費を払うほどの経済的な余裕はない。冒頭、フランス革命によって主人公を演じる役者がギロチンにかけられる姿が映される、タイトルが表示される。劇中において冒頭だけが別時代を映していて、おそらく、ギロチンにかけられた男は主人公の祖先であり、家系が没落していくきっかけがフランス革命だったということになるのだろう。

主人公の有する古城は都市の中にあり、そこにはひったくりグループや金銭にならない仕事をしている人々など、都市で家を持つことができないだろう人々が住んでおり、ある種地下組織の隠れ家のようになっている。古城は現代の都市の中にあるが、内部は現代から切り離された、時代感の失われた世界が広がっている。主人公はそこで、古本と引き換えに兵器を横流しするなど、自身も何か犯罪的なものに加担している。

家を奪う存在として、軍隊と警察がある。軍隊はどこかの地域に出向き、現地に住む人々を追い出し、家具を奪っていく。ペルシャ絨毯が壁に飾られていることから、おそらく家を奪われているのはイスラム圏の人々なんだろうと思われる。同様に、フランスにおいて警察がホームレスの人々を追い出し、その家具を奪う。追い出されているホームレスはジョージア人となっている。主人公達はデモを行い、警察を止めようとする。主人公達は家を奪うという行為に対して常に反抗的であり、家を奪うのが体制であるために反体制的存在となる。おそらく、主人公が兵器を横流ししているのは、軍隊に攻め入られた地域のゲリラ軍に対してだろうと思われる。そのために、軍隊長は帰国後、主人公の古城を監視するようになったのだろうと思われる。

『唯一、ゲオルギア』で使われていたジョージア内戦の映像がテレビから流れることによって、劇中、軍隊が介入していた戦争がジョージア内戦と重ねられる。『唯一、ゲオルギア』ではロシアがジョージアの領土を得るために、ジョージアに住む少数民族に独立を焚き付け、軍事支援したことによってジョージア内戦が起きたと語られる。であれば、劇中の軍隊はロシア軍であり、主人公はジョージア人に兵器を横流しにしていたようにも捉えることができる。体制とは軍隊であり、警察でありロシアでもある。そして、家を奪われる人々として内戦地に住む人々、移民やホームレス、そしてジョージア人がいる。

主人公とその親友はなぜか軍隊長とのコネクションを持っている。軍隊長の住む家は現代的で最新のテクノロジーが揃っていのに対して、主人公の古城の内部は中世の城のような古いものになっている。そして、古い主人公の親友の住む古城は廃墟のようになっており、内戦によって崩壊したジョージアの建物を思わせる。ここから、主人公とその親友はジョージア人に、軍隊長はジョージア人でありつつも、伝統的な生活を送っていたジョージアを占領し近代化させたスターリンに重ねることも可能になる。であれば、主人公の古城はソ連に占領される前のジョージアであり、そこには、『鋳鉄』で描かれたソ連による近代化初期のような労働者も暮らしている。そして、主人公の親友の古城は内戦時のジョージアとなる。主人公とその親友はフランス革命によって没落したフランス貴族であると同時に、ロシア革命によって誕生したソ連によって国を占領されたジョージアでもある。

この映画は、現代を描くと同時に、ロシア革命後、フランス革命後を描いている。二つの革命は現代の内戦、それに伴う移民の発生と排斥に繋がるものである。同時に、誰かの家を奪うという行為はフランス革命、ロシア革命、現代へと渡り繰り返されてきたものでもある。

その繰り返しの中で、現代を象徴するのはロードローラーだろう。序盤、ロードローラーは家に帰らずに飲んだくれている男を轢き、絨毯のように平らにする。そして中盤、主人公は親友と喧嘩した後にロードローラーに同じく轢かれそうになるが、親友が危機一髪のところで助ける。ロードローラーは、家やコミュニティを失いつつある人を問答無用で轢き殺し、街を均質化していくものとして置かれる。いわば、現代はロードローラーのように社会から外れた人、家を失った人をあたかも存在しないように扱うことで、均質な社会を保とうとする時代となっている。それは、ホームレスをゴミ収集所に捨てる警察や、人々の家を奪う軍隊とも重ねられる。そして、社会から外れた多様な人々を住まわせ、コミュニティを築く主人公は、ロードローラーと対比的な存在となっている。

ロードローラーは自然をコンクリートの地面に変えるものでもある。主人公は街に現れたドアから、自然に溢れた別世界を見つける。それは、近代化を強制される以前のジョージアの姿のようにも思える。しかし、再び入った時、その自然の世界は荒れていて、家具がゴミのように捨てられている。捨てられた家具は、劇中の戦争によって奪われたものであると同時に、警察がホームレスから奪ったものでもある。主人公にとっての故郷としての自然、在りし日のジョージアは既に失われてしまっている。

軍隊長もまた、既存の体制が新たな体制によって置き換えられるという繰り返しから逃れることができない。何者かによって従者は殺され、軍隊長は街から追い出される。軍隊長にスターリンを重ねれば、これはトップが殺され何度も変わったソ連時代の反映であるようにも、軍隊長は警察が自身の管轄外であると語ることを考えれば、軍隊長を追放したのは警察で、社会主義国家が資本主義国家に変わったことの反映であるようにも思える。

また、従者が殺されるシーンは『ゴッドファーザー』の引用のように見え、権力者が変わったことを示す。そして、軍隊長が排水溝から吐き出されるシーンは、おそらくバスター・キートンの『電気屋敷』の引用だろう。登場人物達が古い時代の建物に住んでいるのに対して、軍隊長とその周囲の人物だけが最新の電気屋敷に住んでいる。バスター・キートンの作り上げた電気屋敷は段々と彼の意思を超えて動くようになり、遂には彼自身を追い出してしまう。軍隊長の作り上げたシステムもまた、彼を超えた存在となり、排除する。

自然をコンクリートに変え、人々の家を奪っていくロードローラーの社会と対比するように、公園のような場所に家を建てる男が現れる。男の建てた家は、レジスタンスや地下組織のアジトのようで、それはロードローラーである体制への抵抗の予感のようにも見える。同時に、歴史が繰り返されるなら、彼もまたいつか体制を倒し、新たな体制となることになる。

主人公の古城には、主人公の祖先がギロチンされる姿を見物していた女性市民の末裔も暮らしている。彼女は祖先の写真や所有物を家に飾ろうとするが、その中には主人公の祖先の白骨化した生首がある。主人公の親友は、主人公に隠れてその頭蓋骨から主人公の生首を復元しようとする。主人公の祖先はギロチンされた時に家を失う。生首の復元は、主人公が家を失う予感と対応している。それは主人公が古城に築いていたコミュニティの崩壊を意味する。軍隊長の文化的にも資産的にも恵まれた娘と、どちらにも恵まれず盗みによって生計を立てる男の社会階層を跨いだ恋愛関係が希望のようにおかれている。しかし、男は警察に捕まり、その関係性もまた潰えてしまう。盗むことで体制は成立し、それはまた別の者に盗まれる。その反復が歴史であり、人々から家、つまり自然や文化、伝統を奪い均質化していくのが今の社会なのだろう。
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