JIZE

パパが遺した物語のJIZEのレビュー・感想・評価

パパが遺した物語(2015年製作の映画)
2.5
カーペンターズ名曲が捧ぐ今秋最大の不潤な感動作!!近距離な見つめ合い多用が僭越な余韻を残す!!父親側の親権を巡る苦悩と生命を対価に魂を小説に宿す溺愛的な情を賞賛!!ポテェイトチップス!な映画史に残る名台詞も拍手!!約3ヶ月振りの試写で監視。客層は年配の方が大多数を占めビターなほろ苦い大人向け映画な様子。事前に本作主演アマンダ・セイフライドに対し劇団式でオペレッタ調な芝居を危惧し肌に合うか直前まで不安要素ではあった..彼女の身振り手振り過剰な熱表現,鋭い眼光で対象を射抜く熱視線,会話上で倍以上の反応を魅せる熱好奇心,が普通以上に飛び出し独特な持ち味が逆に温厚な題材と不向きで画角が彼女の独壇場と化すのではと..結果,その危惧は別の意図で裏切られ心配する必要は無用であった。では,本作結論を述べれば...娘ケイティの描き込み(特に現代軸)が通常の域を越え過不足でどこに焦点を当て主張したい映画なのか不明で不潤な感動映画ではあった..前後半で感情の乖離度合いがまず否めず過去軸と現在軸で別の映画を観せられてた感覚。構成の違和感及び人物背景の描き込み不足も原因で物語に集中出来ず真に突き抜けた感動作!!とも頷けずな感動味や新鮮味,醍醐味に対し素直に首を縦に振る事は出来なかった..どういう事かと言えば要は娘ケイティの"孤独に苛まれ幼少期に抱える心の傷(トラウマ)"が突き詰め具現的に一切描かれない!!..で辻褄合わせな飛躍さ,時系列入れ替えによる微妙な違和感,160歩譲り映画内で描かれるケイティの人生をケイティ視点で咀嚼するも心の傷を深く負い破天荒な人生を歩むシークエンスを感じられない。感情移入が到底追いつかない範疇迄,疑問符を残しお話が進む..要は思考停止です。また,演出の一貫で心の傷に対しそのボヤかし加減も納得不可能度を更に加速させ尻軽で誤ちに対し学習能力を一切欠く馬鹿女にしか画角内を通じ映らなかった..家族愛や思い出の積み重ねを過度に謳う題材な筈なのにその背景(核心部)をゴッソリ削ぎ完璧に観客が戸惑う映画に思えました。この違和感(異常)に対し..例えば,彼女の人生を破天荒に謳う題材(設定)な割に,実際背景でその絶望的な破天荒感が一切顔を覗かず,あんな父親がいれば順風満帆に人生を謳歌する程の現状と現実の違和感を濃く覚えた。だからその背景(核心部)をいつ迄も提示してくれず会話上だけでお話が淡々と進みボヤかした状態で辺鄙な飛躍感だけが増す。劇中で何故1番大事な部分をマクガフィン的に膨らます事が出来ず駄目な方向に話が終始したのか..否応無く残念な箇所に思えました。作品を観終わり辻褄合わせな構成,お茶を濁す演出,端的な恋愛描写も核心部(心の傷)の具体的な要因が絵的かつエピソードで少なくとも"ある人物の悲劇"以外で一切触れられない為,なんだかな..な感動出来なくはないが辻褄合わせの皺寄せがドミノ的に疑問符を抱かせ映画に呑めりこむエクスキューズが下火過ぎましたね。時系列を前後さし観客を惑わす余計な構成や人物の描き込み不足が全て根底に流れる原因です。

概要。1989年のNYを舞台に父と娘の絆を描いたヒューマンドラマが時代の垣根を越え映し出される。監督は『クレイマー、クレイマー(1980年)』や『I am Sam アイ・アム・サム(2002年)』『幸せのちから(2007年)』を手掛けた名匠ガブリエレ・ムッチーノ。主演は『レ・ミゼラブル』で共演したラッセル・クロウとアマンダ・セイフライド。音楽面でカーペンターズの名曲「Close to You」に乗せ父娘の愛に泣く感動が描かれる。

散々上述したよう娘ケイティの核心部に掲げる心の傷(過去のトラウマ)に対する描き込み不足が明確なのは寛容に500歩譲り物語で他の軸点はどうだったか..カーペンターズの名曲「Close to You」は勿論最高ですよ!絶望的な場面で突如流れ出す御都合主義感とか細かいツッコミは敢えて伏せます..要は1989年に遡る過去軸の丁寧な描き込みが1番周到!車内での夫婦喧嘩による交通事故から話が幕開け父娘2人で生活をやりくりし日々の幸福を噛み締め日常を開花させ多幸感に包まれる..一方,養育権を巡る訴訟に父ジェイクが巻き込まれ新しい小説を執筆しつつも過去の交通事故による神経障害に苛まれ苦悩し..と全体像の構成も1989年(過去軸)と7ヶ月後(過去軸②)..25年後(過去軸③)..今(現在軸)と大きく4時系列に時間推移を分類させ時の移ろいが空虚な淀みを感じさせる割と複雑な構成。ひとつ疑問だったのが交通事故で突如お話から早々と離脱し思い出話しすら登場しない母親と娘ケイティの馴染みある背景を何故付加させなかったのか..ケイティの孤独感を更にデフォルメさせる事は出来た筈。あと訴訟で争う資産家の妻姉の家族下りで結末がほぼほぼ本質と意味を成さないアレなら余計なイベントを付加し右往左往させる必然性も感じなかった。父ジェイクの良きパパ像を努力気質を強調させる為なら製作側の思惑が脆に浅すぎるよ..このように細部まで入念に考え込まれず溝が目立つ箇所が生じ製作側の惰性や違和感は結構多い作品。核心部によるケイティが心の傷を背負った原因を描かなかった私自身の解釈としては紆余曲折に構成上で時系列を操作した事自体が実は1番の原因に思えました。劇中最大のある悲劇を置く描写が割とクライマックス間近な為,それに合わせてケイティの背景が過不足になったんなら構成面が杜撰すぎました。あと父ジェイクも過去の交通事故により神経障害を患い随所にその後遺症的な言動を多発させますが,そもそも娘をかけがえなき存在と重要視し大切に想うんなら治療しようよ..なんで開幕の交通事故を起こし病院に入院する描写以外で病状と向き合う気がないの..とか父ジェイクの努力気質が凄すぎ娘を想う故に現実を見据えれずキャラ造形的に最後まで完璧な父親像であってほしく思えた。

青年期ケイティのキャラ造形もまさに現代的な女性像でめまぐるしい日常を映し出す訳ですが,端的に内的な魅力が乏しすぎた..まして幼少期から父親の愛情や生き様など面影を近距離からたっぷり眺め続け恐らく理想的な人生の理想像と固く敬ってる筈なのに真逆的な程に全く感化されてず夜な夜な飲み屋で男を誘い出し一夜限りの肉体関係を繰り返しては歪み切った生活を悲観的に送るなど彼女から湧き出る父の親和的な面影が全くなかった..製作側が全て過去に背負った心の傷で言い逃れをする気ならやっぱり核心部のその原因が明確に描かれてないと到底納得出来ないし解釈も到底追い付かない..最終的にも自己の本質を理解してくれる男から受動的に誘いを受け最後には..な全てが受動的に成長を遂げ受動的に納得し受動的に終始する。もっと父ジェイクが過去に発した言葉,表情,表現,形見を通じ最初はケイティが人生の道を踏み外すも汚れを振り払い目を覚まし精進し過去の栄誉な思い出があるから現在に希望を抱け未来を見据える彼女自身の機動力を潜在意識に色濃く宿し結論的に父親の有り難みを実感する!!とか幼少期の好奇心に満ち足り輝く記憶を糧に父親の分まで立派な人間に成長してみせる!とか彼女だけが経験し彼女だけが抱く独自な価値観を今一度享受し成長を遂げる姿を凄く観たかった..だからアレで終わりって最後にドヤ顔的に演出で提示されても共感や感動は疎か実質的な成長を遂げず不快さすら抱いた。本当の意味で成長し真の人生を生きるなら彼女自身が元来備う己の力で一歩を踏み出し未来を切り開き己の力で生きる意義を発見し彼女自身の独自な考えで人生を改変する湾曲的な価値観や人生を歪ます原因の枠組み自体を問い直す方向に向かわないと明確な彼女の結末とはいえないでしょ..だから苦悩,孤独,渇望を劇中で散々主張し嘆いても彼女が真に成長を願い行動を起こす描写がほぼ排除されてる為,違和感や疑問符の連続なんですよ。最後の描写も救い価値無き明確な絶望エンディング..ただ,最後に言える事が中盤で『ジュラシック・パーク』の博物館を意識しオマージュしたと思われる描写が転調的に配置され,その場に展示されてるティラノサウルスの剥製が割と本格的に唸るほど格好良くその描写目当てに『ジュラシックパーク』が製作された22年前の衝動思い起こし感動的な歴史の移ろいを紐解く重厚な資料映画としては間違い無く親切で,お勧めです!!!
JIZE

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