まぬままおま

野火のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

野火(2014年製作の映画)
1.0

このレビューはネタバレを含みます

「男の子の映画」だな。死者への冒涜だ。殺害の描写だったり、美術や特殊造形で惨い画をつくり観客にショックを与えたいだけの作品で戦争を題材にするなよ。

品徳をもって描いてほしいんです。

映画はどこまでいってもフィクションだ。いくら戦争の記録や史実を資料として確認し、リアリズムに描写しようとも、フィクションに変わりようがない。そんなことファーストカットで明らかじゃないですか。

デジタルで撮られた田村の顔。いくら顔を汚したって、頬は丸々してる。このルックをみた時点で、フィクションの空虚さが明らかでこの映画の敗北を感じてしまった。
別にフィクションだからよくないとは言ってない。むしろフィクションだからこそ、彼らの本質を抽出してほしいと思うのです。そのための品徳だ。

レイテ島から祖国への帰還は過酷だ。それは敗走であり、軍司令部は禄に機能していないし、飢餓との闘いでもあるからだ。その中で彼らの「愚かさ」が現れてくる。食料のために詐欺まがいの行動をしたり、略奪したり、病を患った者をケアするのではなく厄介者として排除する。さらには殺人を犯し、人を「サル」として人肉を食べたりもする。

人間がどこまで愚かになれるかが露悪的に描かれている。けれど私は思うのである。人間の愚かさなんて何も戦争の別の側面に焦点を当てようともすでに知っていることだと。

だからそんなことを映画で語る必要はない。むしろなぜ田村は生き残れたのか、安田は「愚かさ」に陥ってしまったのか、永松は安田を慕うのか、そこの物語が知りたいのである。どれも偶然や天命、自明のこととして語られる。その過程をフィクションで語るこそ必要ではないですか。

そうしないと死者が反論する余地が残されない。惨く殺され、食べられたかもしれない彼らの。彼らが愚かで殺されて当然なわけがない。愚かに陥ってしまった過程や構造があるはずだ。それは「戦争」の二文字では片付けられないもっと繊細で微少な何かだ。そしてもちろん兵士は人肉を食べなかったと虚偽を語ることでもない。

晩年の田村には人肉を食べたり生き残ったことへの葛藤がある。あれこそ田村の品徳の現れだろう。その苦悶の姿こそ戦争の悲惨さが十全と語られる。でも足りない。全然足りない。
それはこの映画をみて、「戦争はよくない。やめよう」なんて平易に語ってしまう愚かな私たちにも向けられている。