カラン

雨の日は会えない、晴れた日は君を想うのカランのレビュー・感想・評価

5.0
喪失と再生を描いた映画はたくさんある。最近観たもので思い出すのは、『ジュリエッタ』(アルモドバル)、『静かなる叫び』(ヴィルヌーブ)、『ラビットホール』(ジョン・キャメロン・ミッチェル)、『世界に一つのプレイブック』(デビッド・ラッセル)、『トゥー・ザワンダー』(テレンス・マリック)あたりだろうか。喪失に限りなくよっているものもあれば、再生によっているものもある。









『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』



鬱病的な喪失感を抱いたら、自分が世界に存在していることにただただ罪悪感を抱きながら、存在するはずのないものの幻影を見て、自分を破壊するのか、世界を破壊するのか、どちらかしかない。破壊の時間には、ロックがよく合う。

ただ周囲の世界だろうと、自分だろうと、破壊する元気もなくなってしまう時があるもので、そういう生地獄を、エミリー・ディキンソンという詩人は、「鉛の時間」と名指した。

After great pain, a formal feeling comes –
The Nerves sit ceremonious, like Tombs –
The stiff Heart questions ‘was it He, that bore,’
And ‘Yesterday, or Centuries before’?
大いなる痛みの後には、形ばかりの感情がやって来る一
神経が仰々しく座り込む、まるで墓石のように一
こわばった心が問いかける、《彼》が生み出したのか?それは昨日のことなのか、それとも何百年も前のことなのか?

The Feet, mechanical, go round –
A Wooden way
Of Ground, or Air, or Ought –
Regardless grown,
A Quartz contentment, like a stone –
足が、機械のように、うろつきまわる一
森の道を、いや、それは土かもしれず、
空気かもしれず、無かもしれない一
無関心が広がり、
満ち足りる、まるで石のように一

This is the Hour of Lead –
Remembered, if outlived,
As Freezing persons, recollect the Snow –
First – Chill – then Stupor – then the letting go –
これが鉛の時間だ一
もし生き延びたら、思い出すことだろう、凍りつこうとする人間が、雪をその身に集めるように一
最初は、震え、次に、麻痺、そして、忘却するのだ


こういう「鉛の時間」が唐突にやって来ては、心が彷徨う様をジェイクはよく演じていた。周囲の役者も素晴らしく、抑制の効いた演技で、ジェイクの哀しみの邪魔をしない。

しかし、この映画が本当に優れているのは、哀しみの有り体な原因を抹消していくことだと思う。ジェイクは愛する妻を失くしたから、心神喪失と感情鈍麻と破壊活動に至ったのではないのか?しかし、この映画は私たちにジェイクの哀しみに同一化して、涙でベタベタさせ、躁鬱を矮小化させようとはしない。私たちには、他人の苦悩の原因は残念ながら理解出来ないのだ。

妻を、愛していない。

妻は、不貞を犯していた。

果ては、男のハートを蝕んでいるのはマイマイガだ、とくる。


では、一体何がジェイクの哀しみの原因だというのか?もう一度言うが、他人の痛みの原因など理解出来るわけがない。恐らく本人にも。それは世界のどこにも存在しないが、心の中だけにある。そして、その心と呼ばれる場所は、レントゲンにも映らず、「誰にも読まれないはずの手紙」か、ロックか、詩のような、不可解で、大して説明にもなっていないものでしか、語れないものなのだろう。本当のことは、空港の旅行者が引いている旅行カバンの中かもしれず、兵士たちのライフル銃の中、義父の大きな古時計の中、自宅の冷蔵庫の中、車のサンバイザーの裏側、妻の下着が詰まったクローゼットの中、どこにでもあるし、どこにもないのだ。痛みの原因は《彼》かもしれないし、《彼女》かもしれない。それは《昨日》始まったことかもしれないし、《何百年も前》に始まっていたのかもしれない。理解してくれる人がいれば、奇跡だ。きっと、そういう奇跡のような返事は、深夜2時の怪しい電話で訪れるのだろう。あるいは、メリーゴーランドを回してみて気付くこともあるかもしれない。

鬱は、かつて精神分析家になったジュリア・クリステヴァが言っていたように、原因と結果が見合っていない。他人には小さな躓きの石でしかないが、本人にはそれが死因になるのだから。




☆後記 〜解題

この映画の邦題『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』は長いくせに、省略的で、意味するところもはっきりせず、劇中での扱いも、大したものではない。しかしこの長々とした意味深なタイトルはきっとこの映画を好きになる人を大いに魅了したはずだし、恐らくは原題で観た人たちよりも、日本語版で観た人のほうが、この愛すべき表現について何事かを考えるよすがとなったはずだ。この邦題に罪はないと私は思う。私自身は、邦題の意味するところを全く考えず、劇中でサンバイザーの裏から、落ちてきた水色の紙片に何が書いてあるのか、判読すらできなかったが、映画に深い感動を覚えることができた。この邦題に罪はなく、むしろ愛すべきものだろう。英語では以下のように書かれている。


“If it’s raining, you won’t see me.
If it’s sunny, you’ll think of me.”

もし雨なら、あなたがサンバイザーを開いて、私のこのメモに気付くことはないだろう。もし晴れたら、このメモを見つけて、あなたはこのメモを書いた私のことを考えるのだろう。


















☆2023/1/29

3度目だと思う。

「誰が何と言おうとも」

その通りだね。
カラン

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