せいか

クリムゾン・ピークのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

クリムゾン・ピーク(2015年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

7.24、レンタルBDで視聴。

以下、かなり自分用メモ含む。

まだ観てないものかと思っていたが記憶から綺麗に抜けていただけだった。序盤でもう観たなのに気が付いた。そんな調子なので書見時は大して面白く思わなかったのも思い出したのだが、せっかくなので印象が変わってるかもと最後までそのまま観た。普通にだいぶ楽しめた。少なくとも評価はだいぶ好転。やっぱりデルトロのこの手の方向の作品はいいぞと思う。キャットファイトが延々続くところは真面目なシーンながらやはりちょっと手に汗握るところがある。
初見時に一切の記録も残していなかったので、改めて詳しく以下に書き出す。

デルトロの副音声で明言されてるが、本作はゴシックロマンスとして作られている。対照的な女二人が前面に出た愛の話。女はあらゆる形で強さを持つのだを語るものであり、女性作家の系譜を背景にして女性作家の主人公がこれを語るという構造になっている。

視覚効果なども計算されており、あらゆる面で美術関係がとにかく眼福である。

物語の始まりは1880年代だが、メインは1900年代頭。
主人公の女性はアメリカのニューヨーク州内の都市バッファローで会社を運営している富裕層にある父を持つ、小説家志望の人。この時代に女性で小説家を目指すくらいなので特異な先進性がある。怪奇小説指向を希望して日夜出版社に通うが、それよりも需要があるから恋愛ものを書けと言われてしまっている。
主人公の時代の女性作家といえばブロンテ姉妹後で、ウルフがあと数年もすれば活躍し始めるくらい。主人公ほど富裕にあって父親からもこの一人娘の夢を積極的に応援されていて自由にできる時間もあってとなると、まあ、女性でも作家の道に進める環境にはかなり恵まれた状態にある幸運な人である。ただ、この主人公、歳の若さが強調されているので、たぶん20代~20代半ばくらいだとは思うのだが、とにかく軽率であまり頭は良くないところが垣間見えるので、どこまで真面目に文学だとかの素養を持っていたのかはよくわからない。作家のメアリー・シェリーのパーソナルなことだとかの応答を即座にしていたことからもある程度はしっかりしているという設定なのだろうが。
ちなみにこの時代のアメリカの怪奇小説といえばちょうどポーとラヴクラフトの間にあって、そういうジャンルの人気に間隙があった時代であったともいえるので(※ものすごくざっくり言っております)、編集が乗り気ではなかったのもその辺を反映しているのかもしれない。イギリスならこの時代にはまさにブラックウッド、M.R.ジェームズなど、日本でもその分野ではお馴染みの面子がいろいろ活躍していた。ちなみにアメリカでもアンブローズ・ビアスといった有名どころがおり、ビアスはアメリカ史また世界史的にも重要な位置にある南北戦争にも参加してその経験から著作を書いていた。怪奇小説の流行やその作品傾向って多分にその国の社会の雰囲気と化学反応な関係にあると思うので、つまり、とりまイギリスで寄稿してみようぜ……!て感じである。
少なくともイギリスのこの時代の怪奇小説の流行から言うと、科学が優位にある社会の中であえてのオカルティズムよみたいなノリがあると雑に言えるのだが、本作においてもそういうイギリスの怪奇小説の傾向のようなものがあったと言えると思う。この時代のアメリカはどんどん科学や産業のほうで発展していって国力を上げていってそれでww1に参戦してとかの過程にあって、物語序盤の舞台となるバッファローなどはそういったものを象徴するような都市としていろいろな国の人が混淆しながらかなり賑わっていた場所の一つだからである。そこで主人公はこのいかにもロマンスゴシックな出来事に放り込まれるので。バッファローについてもう少し補足しておくと、この地は当時のアメリカでも目立って電力が取り入れられていた場所で、19世紀後半にできたナイアガラの滝を利用した電力(これもこの時代のアメリカの電気に対する電流戦争などに代表されるあれそれの系統が詰まったものである)が主要産業だった工業に利用されてもいて、とにかく本作においてはバッファローという土地に当時のアメリカの光の側面をとことん象徴させていたのではないかと思われる。ちなみにバッファローでは製鉄が工業の中でもメインにあったので、それもあってトーマスはこの場所に来てクリムゾンピークの粘土を製鉄と絡めつつ営業活動していたのだろう。
  → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、このへんの意図で間違い無さそう。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、彼はヘンリー・ジェイムズを特に好むとか。『ねじの回転』などが代表作で、ちょうど作品時代とも近い。アメリカ人でアメリカ的な要素は作中に深く影を落とすが、執筆自体はイギリスなどの外国で行っている。本作が入れ子構造なのも『ねじの回転』を意識してるのかな。霊の出現時の雰囲気とか、ファムファタル的な兄妹の男のほうとかもそうなると意識してしまう。また、「アメリカと古き欧州の衝突」しているようなところを好むとかで、このへんもまさしく本編に落とし込まれている。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、この時代設定にしたのは、この当時のアメリカが何でもできそうだという雰囲気を持っていたから。そうしたものをトーマスが主人公を振る会食シーンの発言に込めている(過去から未来を見ている存在の彼にそれを言わせている)。またここですでにトーマスがそもそも進んで主人公のことを傷つけたくはないという態度でいることも表現している。その後に主人公を追ってさらに言葉を重ねるシーンでは、彼自身も傷つけたくはないという想いも乗せている。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、この時代のアメリカは実際に結婚詐欺殺人みたいなのが横行していたとか。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、ゴシックロマンスはメルヘンなどに近しいものがある。

特典映像のインタビューでも触れられているが、露骨に映像表現としてアメリカとイギリスのシーンはそれぞれ色彩の寒暖が対照的になるように設定されている。アメリカが暖かな印象で、イギリスは冷たい印象。景色などにしてもアメリカは活気があって生命に満ちているが、イギリスはその真逆。
たぶん、観ていて思うに、これらに関してはアメリカがどう、イギリスがどうとかではなくて、アメリカ(バッファロー)のシーンは人類が未来にとにかく邁進して文明を上げていくイメージが仮託されているのに対して、イギリス北端にあるカンバーランドにあるとするクリムゾンピークのシーンは過ぎ去った栄光というか、そういう人類の前進の犠牲みたいなイメージを仮託していて、そういうのが上記に見た目の形として現れているのだろうと思う。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、このへんの意図で間違い無さそう。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロおよび特典インタビューいわく、主人公父は一代で成功した成金で、無駄なくらい豪奢にしている。また、姉弟が(新しい服が買えないからだが)流行遅れの古い服を繕って着ているのに対して、こちらは娘も含めて新しくて綺麗な服。また、アメリカの人々は機械で服を縫ったが、姉弟の服は手縫いにしたとか。ちなみに姉のアクセサリーなんかは肖像画の母親が身につけていたもの。連鎖を感じる。

それでまあ、その出版社がある同じ建物に幼なじみの男性が開業医として登場し、主人公とたまたま再会したりもする(そして幼なじみの母親に作家志望であることに対してチクチクと嫌味を言われもする)。
ちなみにこの建物に向かう道中で主人公はぬかるんで泥状の往来を駆ける描写があるのだが、後のクリムゾンピークの赤い泥との対比なのだろう。

優しくて進歩的らしき幼なじみとは打ち解けた仲でなんだかいい感じではあったのだが、そこに現れるのがクリムゾンピークから来たスマートな色男のトーマスである。なにやら黒いイメージでいるので、アメリカのシーンでの彼はどことなく悪魔的な雰囲気が付きまとっている(イギリスではそうした様子はほとんど抜け落ちている)。もとはそれなりに良い家柄らしいがいまは落ちぶれて荒れた土地に姉弟の二人だけで残され、とにかくあふれるほどある赤い泥状の粘土を活用しようとあちらこちらに営業をかけている男である。彼は主人公の父親の会社にもそうして現れたのだが、自分の前に既に各国を何件も当たっておきながら営業に失敗しているということを見透かしてその支援を拒む(そうでなくとも第六感的に彼を危険視もしている)。
そうした父親の直感を裏切る形で主人公のほうはいいようにトーマスに転がされて距離を縮めていく。原稿を読んで褒めてもらえたのがきっかけなのだが、あまりにもチョロすぎるぜ……。あとはお姫様みたいに露骨に特別視してもらえてダンスして公園デートしてと、そういう描写はあるのだが、それにしたってそんなホイホイ距離縮めないだろうと思える采配はされているので、主人公の駄目なところが意図的に描かれている。駄目というか、未熟なところということなのだろうけれど。特典インタビューにもあるように、本作は童話的な主人公の成長を描く意図もあるとのことなので。
それで父親のほうはいよいよ身を乗り出してトーマスの身辺調査をし、彼が既に既婚者であることを突き止めて手切れ金によって娘とは別れるように、明日には発つようにと姉弟を呼び出して言う。ついでに、娘を思い切り傷つけて後腐れのないようにしてくれとも。それでそれは叶えられるのだけれども、翌日に父親は(後で判明するように姉に)殺され、トーマスのほうはきみの父から別れるように言われたからああしたけれど、僕は君が好きだみたいな手紙を主人公には送っておいたので、まだ父の死を知らない時点ではあるが、主人公はもう恋に燃えた乙女として三文芝居の恋愛劇さながらにトーマスと結ばれることを決める。人前でぶちゅぶちゅキスもする。ハードルが高ければ高いほど盲目にもなれるというわけを地でいく女なのである。そんで父の死を知ってショック受けてなんかもうそのままホイホイとトーマスとの結婚に一気に飛躍し、父の身辺を片づけ終えるよりも先に姉弟とイギリスへ発つ。勢いがすごい。
   → 補足:オーディオコメンタリーでもデルトロが言ってたけども、立て続けに二周目でアメリカシーンのトーマスを観ると、一周目のように彼が悪魔じみて見えないマジックがある。こうして観ると彼なりに(彼なりに)ずっと優しくはあったんだなと気付ける(手出しをホイホイしなかったことから既に伺えてるところはあったのだが)。幼なじみが頭からどう観ても優しい男だったのとは対照的で面白い。なるほど、表面的に分かることなんてごく一部ということで身をつまされた。(なお初見時は全体評価が低かったのでそもそもこの辺の印象が記憶に残っていない。)あと、ブチュブチュしてる時点で二人はもう意図で結ばれて愛し合う関係にあるように作っていたとか。私は疑り深い人間なのでデルトロがいうように疑っておりました。そんな、ロマンスの神様どうぞよろしくねみたいな。この人でしょうかみたいな。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、というかこれ聞かんと分かるかいなのだけども、そもそもこれまでトーマスの妻たちは姉にあてがわれたもので年上の人物だったと(なので、姉は主人公のことを「若すぎる」と言ってたのね)。そして主人公ほ初めて自分で選んだ女性でもあったとのことで、つまり、初めから娘込みで狙って営業に来ていたわけでもなかったし、近付いたときの対応もあくまで自然なものだったということなのだろう。自分と同じように社会からは浮いている彼女とひかれあったのだとか。ロマンスの神様どうぞよろしくねじゃんか。とはいえ、やはり愛に気付いたのはアメリカの自室のシーンとのこと。

さきほどからそういう態度は滲み出しているが、とにかく主人公が考えなしで自己中心的というか、よく言えば無邪気な少女のままといったもので、端的に言えば好感は持てない。お馬鹿。なんとなく知的な雰囲気は出しているが、致命的におばか。明らかに自分は利用されてるものと見てどれだけときめこうとも家がかかってるのだから慎重になってもいいところをそうしないのもそうだし(あと、本作はこういう「家」が重要な位置にあって、トーマスたちが家に縛られている反面、彼女はそれを恵まれながらも蔑ろにしていたといえる)、最終的に父の最後の意思となったトーマスと結ばれることへの反対について考えてみることすらもしないし、幼なじみが父親の遺体を見て何か気になって検分しようとしたら止めるし、そもそも家の処分すら人任せにして完全に投げ出して何もかもを捨て、周囲の人間は省みず、父親からの万年筆のプレゼントも受け流してそれよりワープロをくれだし(その最後のプレゼントも局面で報復の意図だろうけれども武器として使い物にならなくしてもいる。父親が彼女を守ったとも言えるのだが)、なんだかもう、なんだかもうなのである。トーマスがなんだかんだ彼女の無邪気さを前にして優しくなる人で良かったよなというか。
特にクリムゾンピークでの寝間着などは冒頭の少女時代をそのまま大きくしたような感じでもあった。
そんなでも自分の母親の霊をはじめとして屋敷の霊たちからも逃げるように忠告してもらえたり、謎のヒントもらえるのありがてえなー。なー。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、主人公は進歩的だが過去を表す幽霊を見ることができるとのこと。幽霊に関しては過去に囚われている姉弟があれだけ好き勝手していても一切見ることがなかったのは観ていてずっと気になった点であった。ゴシックロマンスにおけるゴーストが過去の象徴であるというのもデルトロ自身はヘンリー・ジェイムズから影響を受けているようである。また、ヘンリー・ジェイムズいわく、「過去とどう向き合うかが未来を決める」とのことで、ここも本作にそのまま適用できる。また、アメリカの屋敷においては一部の家具類を大きさを変えた同じものを作って、主人公が心身ともに弱っているときにはこれらが大きく感じられるように表現していたとか。確かになんかソファーごついなとかコップでかいなとは違和感を感じるシーンがあったけど、まさか同じの作り直してるとは思わなかったなあ。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、主人公は強い人物を目指し、とらわれのお姫様ではなくてむしろ男を救う側になるようにしたとのこと。確かにラストも瀕死の幼なじみを全てを独りで終えてから助けて共に脱出したりしてるし、トーマスを愛によって救ってもいる。なおかつ、主人公は周囲から見くびられている存在で、父親も、彼女を愛してはいても大きな決断は任せないという設定で形作ったという。主人公がシェリー好きを公言したのも、彼女と同じように未亡人になり、彼女と同じように自分の道を見つけるラストを示唆する意図とのこと。なんであれデルトロ的には頭から主人公は自立した方向性の女性として描くという意図があったようだ。また、理想的な女性として描きたくなかったゆえに、だから優しい幼なじみを最初は男として見てもいないし、ラストだって別に結ばれて然りというふうにはしなかったと言っていて、デルトロのこういうとこ好きなんだよな(大の字)という感じではあった。美しくても儚い必要はなくて強くだってなれるとか、美しさも醜さと同じくらいの力があるとか。好きすぎる。あと、二人がセックスするシーンにたいして、ヒロインが清ければ助かるとかそういうのクソ食らえとか。好き。セックスは解放するもので生に向かうものとか。主人公がリード側に回ってたのも意図してのこと。そしてまたこのセックスが分岐点となって物語は加速するようになっているし、ここではっきりと本作が二人の女性を中心にした物語で男はかやの外でしかないとか。そして姉は一戦を越えた二人に気付いて異常性を増して屋敷も呼吸を始める。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、父親の遺体を検分しようとする幼なじみのほうが自分の世界に入りすぎているのだとか。それで主人公はそれを引き止める側だったのだと。いや、明らか殺害された遺体なら検分してもらったほうがいいと私は思ったのだけど、ちょっとなかなか主人公像に関してはデルトロの狙いを私はちゃんとキャッチできてなさすぎてビビる。当時においてそういう検分とかがあんまりとか、遺族の感情として死体をそっとして置いてほしいとかかもしれないが。特に後者に関しては理性が強すぎる以上に人間性と関係性に問題があるのもあってその気持ち全く分からない人間なので分からない。少なくとも彼女は幼なじみのふるまいを無礼に感じたという設定なんだとか。ここで理性的に振る舞うのは彼女の場合は理想的すぎると。

それでクリムゾンピークに来てからは早速姉が本性を出して弟をけしかけて主人公に毒をもりもりに盛ったり、主人公もたまに自宅で見ていたような全身ちみどろみたいなゴーストをやたら見るようにもなり、だんだんなんだか変なことになってるのにも気づいていきつつも、本当に主人公のことを愛するようになっていたトーマスといい雰囲気になっていき、近親相姦の仲の姉は嫉妬を募らせもし、最終的に大怪我しまくり刃物振り回しあい、弟は姉に発作的に殺され、どちらかが死ぬまでやめられない止まらないのキャットファイトも開催され、まあ主人公が勝ち、主人公を心配してはるばる来てくれては重傷を負った幼なじみと共にクリムゾンピークを去りぬをしてエンドみたいな流れになる。

本作、デルトロのダークファンタジー作品にはよくあるように、一部上述したが、背景だとか象徴の類がやはりてんこ盛りになっている。

主人公やアメリカが蝶のイメージなら、姉やイギリスは蛾だとか。蝶は作中でも触れられたように儚い美しさと死骸が無残に虫に集られて食べられるイメージであったり、一般的には魂とか死といった要素もあるものです。対する蛾は光に群がるだとかモルフォ蝶だとかの腐った果実などを餌とするようなイメージがここでは強いのかなと思う。じゅぐじゅぐの土地の家に寄生し、弟に寄生し、金を持っている女に寄生して死を招く。

また特典インタビューでも触れられていたように、クリムゾンピークの家自体が姉と同化していたり、その屋根裏(=脳)に自室があったり(そして少なくとも主人公か発見したときにはここで弟と性交していた)、母親の時代に作られたエレベーター(檻のようでもある)は食道のように屋根裏から地下までを貫き、さらに台所などの重要な所に直接繋がってもいる。特に監督たちは台所と地下をこの家の胃袋として捉えていた。台所などは主人公に毒を盛る場所でもあったり、物語が進展する場所として機能しているとは明言されている。ついでに言えば、廊下ほここでは女性の場所で、ゴーストや主人公、姉が歩きはするが、トーマスは通らないように工夫したとも明言されている。美術もなにやら狭く刺々しくデザインされていたり、いわゆるキングの『IT』における暗渠の役割みたいなもので、膣とかのイメージが乗っかってるのではないかと思う。何かが生み出される場所。女の情念が結露する場所とでもいうか。
話が進行するほどに季節が深まり外は白銀と赤色の世界になって、ただでさえほぼ廃屋な屋敷の中は亀裂から血が染み出すように泥が濃く流れるのも印象的。
屋敷は入り口から入って中央にある吹き抜けの部分が屋根が崩れていて雪やらなんやらが落ちてくる一帯が丸い円形に直径2メートル程度の床にあって、さらにそこはじゅぐじゅぐに粘土が染み出してもいるのだけれど、脳天に穴が空いてもはや破滅的みたいな感じ。
舞台美術に取り込まれてる家訓は「死は全てに勝る」。暖炉にあるのは「私は丘を見上げた」。

あと、ペローの『青髭』、ポーの『アッシャー家の崩壊』的なものが本作のゴシックロマンスな物語の背後に影響として見られる。屋敷は特に最後に崩壊しなかったけれども。ラストとか、そのまま赤い血の池に沈むように崩れるかとは初見時にも思っていたような気がする。あくまで泥の上に浸食されて寂れていきながらもこの呪われた屋敷は形骸化したまま内にゴーストたちを孕んで終わる。
特典インタビューではウォルポールの『オトラント城奇譚』が挙げられていた程度だが、それよか上記の印象が私がパッと思い付くだけでも強い。なんこ他にも思った気がするが鳥頭なので忘れた。
また、脚を悪くした母親が子供たちの近親相姦に気が付き、姉が邪魔者となったこの母親を殺すのだが、湯船にいるところを斧で頭叩き割るというやり方で、さながら妻に殺さるるアガメムノンの如し。姦通してるのは子供たちだし、壮絶な復讐劇とかもないですが。頭叩き割られるわけではなく出先でですけど、ミノスなんかも風呂で熱湯かけられて死にますね。たぶんこれも関係ないですね。
ついでに言うとこの母親が肖像画を見る限り生前支配的な人物だったのではないかとも想像できる。まず彼女が子供たちをこの家に縛り付けていたのだろう。そしてまた子供たちはこの寂しい世界では二人きりの男と女、アダムとイヴ状態にならざるを得なかったのではないか。

トーマスはここの土地を活用しようととにかく泥を掻き出す機械を動かそうとする。このためもあって資金集めをしたりしている。女性を捕まえてはそのお金で実現に向けて活動する。そもそもここの土地にこだわってるのも姉によってここに執着するように縛り付けられているから、自分たちにはもうここしか残されていないからなのだけれども。
この機械というのが19~20世紀の文明観の反映で、上述したところのイメージがあるのだろう。もう死んでいる過去の遺物がぽつねんとしながらも現在の文明でどうにか息を吹き返そうとしている寄生。そしてまた見方を変えれば、現在の文明は地球の資源という血液をむやみやたらに抜き取る上で成り立っている寄生でもある。それらの無理がこの屋敷に、姉弟に世界の歪みとしての運命を押しつけている。主人公はそれらからさらに過去の遺物そのものであるゴーストに示唆されながらも最終的に脱出しとおせるのだけれど、主人公と姉が光と影の関係であったように、影である姉を倒してそうしたこの地を去って、そしてたぶん幼なじみと共に光り輝くアメリカに帰ってという可能性を想像するに、完全にハッピーエンドとも言い切れないのではないかとも思ったりする。主人公は成長したのかもしれないけれど、光り輝き未来に邁進する、そして邁進するために機械が動力によって忙しなく動き続けるアメリカが(その行き着く先が大戦での活躍だとして)そのために吸い上げているものは何なのか。どれだけの血が、資源が汲めども尽きぬほどに消費されているのか。
で、さらにまた主人公は作中の出来事(=過去)に寄生して、そうした科学文明とは相反する怪奇小説を書くという構図にもなりながら話は収まっているわけで、なんだか気持ち悪いわねと思う次第である。ほめ言葉として。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、この機械は、最初は小さなおもちゃだったものがやがて怪物になるイメージで作ったとのこと。あながち上記の読みで間違ってないのかも? でも、話聞く限りは単にただトーマスに仮託しているだけの要素が強そう。いわく、彼はなんにでもなれる可能性があったのに、立ち直るのが遅すぎた(=怪物になった)という感じで説明されるに留まっている。あの機械が彼と重なるというのは読めたけど、それだけっぽいのかね。ともかく、トーマスは立派な人間になろうとはしてるけど結局それになれてない人間で、幼なじみは一見頼りになるように見える人間(理性的にものを考えようとするけれど実際には見えていない。幽霊も理詰めで説明はするけど見えていない)。監督も幼なじみの役割はとらわれの姫だと役者に説明してオファーした。

あと単純に、弟に魅せられている精神的に狂った姉が蝶を針で留めるように弟をこの土地に縛り付けているようなことになっている点も面白かった。二人の世界にしたいのにそれができない、誰かに寄生するしかないジレンマとか。
弟も自ら直接的には殺人に手を下しはしないけれどいいように縛り付けられ続けて、主人公への愛によって目を覚まし、やっと、この土地から離れる選択肢を考えられるようになったり。切ない。せめて弟も姉と同じように姉を愛していたらもっとうまく歯車が噛み合ってたのだろうけれど、昔からずっと噛み合うことはなかったのだろうなあ。そして延々と赤い粘土の血を汲み出し、汲み出し、汲み出そうとするしかなかった。

クリムゾンピークで前にトーマスが渡米の前に殺すつもりで逃がしたという子犬はどういう意図があったのだろう。何を食って生き延びていたのか不明なまま小綺麗に生き延び続けて主人公に見つかって飼われて作中は取り立てて何をするでもなくずっとキャンキャン吠えてたのだが。
   → 補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、凍えるような寒さの中で餌もないのに生き延びていたのは、過去から訪れる存在の表現の一つとして取り入れた結果で、飼い主である幽霊のもとに戻ってきたからなんだとか。トーマスの過去の妻の飼い犬だったようだ。

補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、クリムゾンピークの赤いゴーストたちは湿地帯の死体を参考にしている。ひしゃげた顔をしたりしてるのは泥の重みで歪んだ表現。

補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、作中でも触れたように父親は旅で屋敷に居着かずに金を湯水のごとく使い妻には暴力を振るって脚を駄目にし、姉はその母を甲斐甲斐しく世話した(支配した)。この流れで近親相姦の否定からの殺害がある。屋敷は家の過去の栄光でしかない。ルシールにとって殺人は性的衝動や快楽。部屋にはピン留めの虫が飾られているが、彼女は綺麗な虫を捕らえては刺し、死んでいくのを眺めて興奮していた。セックスを主人公に発見されたときの二人がまさしく本性で、人形みたいなのが弟、ここで羽化して蛾の本性を出すのが姉。
   → 髪の毛をピン留めの虫みたく収集してたのもサイコパスみたいやなと思ったけど、まさにそういう意図とのこと。

補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、女性は強いし怖い。フィクションはもっと肯定的にそういうの扱うべき。(大好き)
また登場人物は選択することで変わってきた。トーマスもそう。それによって主人公と愛によって結ばれてセックスした。

補足:オーディオコメンタリーのデルトロいわく、ラストバトルの地下がとにかく壁もいよいよ赤いのは子宮の表現。
姉が最後に弟の幽霊を見たのが彼女が最初にして最後に見た幽霊。
ラストに主人公は幼なじみを愛しているわけではない。互いに縛りあうことを求める愛は屋敷に残り続ける。それがラストに姉の霊として描かれる。主人公が振り返るのは過去を置き去りにすることを見ていて、今、ひとりでも生きていけることを自覚している。これはとにかく愛の話。

孤独で誰にも省みられない金持ち女をねらってきたと姉は言ってて、事がうまく進めば主人公もまさにそうだったのだろうけれど(社会的には少数派で浮いてるところもあったしなおさら)、彼女を気に掛け続けてほとんど真相にも近づいてクリムゾンピークまで来た幼なじみくんの存在はまぶしいよなあ。孤独の否定。王子様にはなれなかったけれど。でも彼が駆けつけなかったらあの時点で主人公はあのままサインさせられて殺されてただろう。もしくは母親と同じように脚を負傷してたので、手当もされずにそういうルートに行ったと思われる。最悪それでも独りでやってのけたのかもしれないけど、門前にまで人が助けにくることはなかったのでやっぱり死んでた可能性のほうがはるかにたかい。けして彼女がひとりでやってのけたわけではないよな。



おれ、ここはこういう意図ですねみたいなのを社会背景とかそういう知識から読み解く分にはほぼほぼいい線いくけど、人の情(特に恋愛周り)となるとほんと駄目というか、デルトロさんも言っとるだけど、理詰めで正当に物事を見ること(要はここでの幼なじみ的な態度)は出来すぎるのだなと思いましたわね。
主人公がこの時代の女性としてどうとか女性作家としての系譜としてどうとか強いとかは分かっても、情愛のところはてんで理解できてなかったので……。なんなら、なんだこいつ?と思ってたのですけど、まさしくデルトロさんが言うように幼なじみ的な視点の持ち主。
幼なじみくんおれとうまくやってける可能性あるけど駄目人間でも良かったら連絡くれよな感。
愛の物語なのはさすがに分かったけど、主に姉弟の歪んだ愛のほうはきちんと汲み取れてたりね。健全さ謳われた主人公の愛はかなり本編経てからまあそれなりに察するというところになにかもういろいろテスト結果出された気持ち。ていかんともな顔で今に至る。
幼なじみくん、マジで、いろいろなかなか頭は巡るけど最終的には全く活躍できないところとかいろいろ、そうか、そうかってなんかいろいろ一部自分を見てる気持ちになったのであった。

でも怪奇小説というのはその作家が持つテーマ、何を恐怖の対象と捉えるかがあると思うのだけど、そういうのはややバラけてたなあとも思うのだった。ポーは生きながら埋められるということに特に執着しがちみたいなのとか。もちろんデルトロ作品全体の傾向みたいなのはあるけど、それとは別個の。
ああいう作品なので。さらにもちろん、あの作品の場合は「愛(執着)」と言えそうなのだけど、肝心の主人公がそこに関してずっとポジティブすぎる一辺倒なので、少なくとも怪奇小説的な位置のテーマではないよなと。作品全体のテーマとしての「愛」はそれはそうであるの分かるけども。

私がある種の陽の部分に関して読み取ることが苦手なのはそれはそうなのだけど、n回観ることを前提としてもやはりそれだけではデルトロさんの言いたかったこと(主人公像)を作中表現だけで読み取れるのかといったらビミョーに思うんだけど、それを読み取れるってよほど素直な陽の人くらいでは……?
主人公がいろいろ拙い子供の状態にあって作品を通して成長する話というのはその程度の大枠ぐらいは言われずとも読みとれてるし、散らばってる要素から語られていないことまで組み立てるとかもできるけど、あんまりにも、それはさすがに言われないと分かりませんよ!みたいなの決定的なところで置かれてると、制作サイドの発言聞かないと作品が完成しないじゃないというか。
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