YasujiOshiba

パゾリーニ(原題)のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

パゾリーニ(原題)(2014年製作の映画)
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某所の大スクリーンでBD鑑賞、その3。

備忘のために

- デフォーは英語で話す。基本的な会話は英語。ところがところどころイタリア語がまざる。まあ、基準ははっきりしているかもしれない。パゾリーニの標準的なイタリア語は英語。母親(アドリアーナ・アスティ)と親密な空間で話されるフリウリ語や、ローマのボルガータの若者たちとの会話するときのかなり強烈なローマ方言など、ふつうのイタリア人にも難しい言葉はイタリア語のままにしてあるというわけだ。
 このヴァージョンをイタリア人が見たらすごく奇妙に感じるだろうけど、英語のセリフを基本にして、パゾリーニの生きた言語世界を描くための苦肉の策という感じ。

- アベル・フェラーラというイタリア系の監督の作品はこれが初めて。映画を観たあと、どんな監督なのか話を聞きながら、だんだん興味が湧いてきた。これだから映画は楽しいんだよな。

- なるほど、ここにいるパゾリーニはフェラーラ監督のパゾリーニなんだね。一言で言えば、人間はどうしようもないくそったれなのだけど、だからこそすばらしい出会いもある、ということ。そういうテーマにパゾリーニほど適した題材はないのかもしれない。

- 映像はどこかおとぎ話なところがあり、そこが妙にリアルだったりする。その意味でフェリーニを思い出すこともできるのだろう。

ただ、興味深かったのは、ソドムの市を撮り終えたパゾリーニを主題にしていること。その時期彼は、『Petrolio (石油)』という小説に取り掛かっていた。これは未完に終わるのだけど、あの『アッカットーネ』で描いたような生命の活力が、資本によって切り崩されてゆく世界にむけて放つ、小説という爆弾となるものだったらしい。また、映画も『ソドム』のあともう一作で映画監督としては完成すると語っていた、『Porno-Teo-Kolossal 』(ポルノ的神学的な大活劇、とでも訳せば良いのだろうか?)という企画があったのだが、これもまた企画だけに終わってしまう。

フェラーラの映画が興味深いのは、その『石油』と『ポルノ・テオ・コロッサール』を実際に映像化してみせてくれるところであり、そこにパゾリーニ自身が想いと人生を重ねてみせようとするところなのだが、そこはあくまでもフェラーラにとってのパゾリーニなのだ。悪い意味で言っていうのではない。パゾリーニとは、おそらく誰にとって接近不可能な存在なのだが、だからこそ誰もが、自分なりの接近を試みたくなる、そう言いたいのだ。

なにしろぼくもまた、このフェラーラのパゾリーニには、ちょっと触発されたのだ。ずっと前から敬して遠ざけてきたパゾリーニに、少し接近を試みてみようかというやばい気持ちが、すこし頭をもたげてきた。手始めに、パゾリーニの映画全集のなかにある Porno-Teo-Kolossal のページに目を通してみようかな。
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