ドアのベルと電話のベルの音は一緒。
この映画はいくつもの異なる音を同時に鳴らしてしまう映画だが、そのなかでドアと電話だけが、異なるものが異なるときに、同じ音を鳴らしている。
だからベルが鳴ったとき、観客には、その他者が遠隔的(tele)に到来したものなのか、それとも直接(unmittelbar / immediate)に到来したものなのかが分からない。
もちろんこの区別は、映画のなかの彼らにはついている。彼らに分からないのは、それが敵なのか味方なのかという点である。
敵ならば撃つ。味方ならば迎える。この「意志と表象におけるゲーム」に参加=自己拘束する彼らは、あたかも生死のギリギリで生きているかのように見える。
ヤー、アーバー。たしかにそうだが、しかし。彼らはしばしばアフレコで語る。アフレコの声は未来の(しかも嘘の!)言葉であり、その意味で全くの安全地帯で放たれる。台本=哲学は「物語=歴史の終焉(das Ende der Geschichte)」という安全地帯からテレに到来し、いまここで、ひとつの演技=ゲーム(Spiel)に身体を巻き込んでしまう。
だから内部に外部が、危険に安全が、つねにテレに取り憑いている。到来者のテレな呼び声が、意志と表象としての世界をその外部から撹乱しに来る。これはポリフォニックと見せかけて、言わばテレフォニックな映画なのではないか。