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ストロボ・エッジのnetfilmsのレビュー・感想・評価

ストロボ・エッジ(2015年製作の映画)
2.8
 朝の光が差し込む列車の中、少女は隣の車両に居る男の子の様子をつぶさに見つめる。男は老婆に席を譲るとドアの前に立つのだが、その反対側にちゃっかり少女は立ち、男と2言3事、言葉を交わすのだ。高校生の仁菜子(有村架純)は同じ学校の同級生の蓮(福士蒼汰)に恋をしていた。電車通学の彼女は毎朝ここで、蓮に会うのを楽しみにしているのだ。男が降りて数十m先に進んだところで仁菜子は彼を呼び止めるのだ。何事かと思い振り向いた彼に仁菜子は告白をするのだが、最初から彼女は彼に断られることはわかっている。クラス一の人気者である蓮には年上で人気モデルの彼女(佐藤ありさ)がいた。相手の気持ちに気付いている男の行動は自分主導で全て回る。自分を好いていてくれる女性に対して悪い気持ちはしないものだが、だからと言って限度というものがあるのは確かだ。だが仁菜子は何ならこの片思いの一方通行を楽しんでいるように見える。学年一のモテ男の周りには若い女性の告白が付きまとう。彼女たちの好きは断られた時点で憎しみに変わっているのだけど、仁菜子の想いはそこにはない。好きな人をただ朴訥と目で追うだけの生活に少女は満ち足りている。だがその満ち足りた日常に安堂拓海(山田裕貴)はズカズカと割って入るのだ。

 今作の色味はハレーションを起こすほど眩しい。列車の中や教室の窓、そして吹き抜けの天井など十分な光量を生かしながら、眩暈がするほどキラキラとした高校生活が生き生きと切り取られて行く。廣木隆一のフレーム設計は相変わらず凝りに凝っていて、学校の1階から2階、2階から3階へクレーンがゆっくりと上昇したかと思えば、分割された映像で矢継ぎ早に進行する。また手持ちカメラのグラグラした挙動を生かした長回しで、仁菜子の恋を切り取る真にプロフェッショナルな仕事ぶりだ。その構図は極めて少女漫画的で、有村架純の表情をあまり正面から据えず、サイドから据えようと苦心するのがわかる。最初は蓮に対する憧れの気持ちだけで十分だった少女の心境は徐々に複雑な変化を見せる。刻一刻と変化して行く仁菜子の感情の揺らぎに寄り添うようにカメラは静かに構えるのだが、ここで繰り広げられる半径数mの恋愛模様には、はっきりと違和感を禁じ得ない。蓮がどんなに魅力的な男であろうが、年上の女に見切りを付けられたからと言って、ほとんど間髪入れずに仁菜子に迫るのは少女漫画原作とは言え、率直に言って大変気持ち悪い。1954年生まれの廣木隆一が、孫よりも若い平成生まれの恋愛を描写してはダメだという法律はないが、幾ら会社の要請とは言えここまで雇われ仕事に徹する様子を全面的に擁護する気にはなれない。

 駅のホームや放課後の教室、修学旅行や文化祭などここにはおよそ青春映画の素材になりそうな要素はほぼ揃っている。ないのは青みがかったプールの水面の揺らめきぐらいだろうか?若い時は常に猪突猛進で一直線に前へ前へと突き進むのだけど、常に物語の中心にいる仁菜子は別として、彼女を取り合うことになる蓮も拓海もあまりにも過去に縛られ過ぎる。それはリトマス試験紙のような中盤の杉本真央(黒島結菜)の登場すらも見事にダメを押す。半径数mの恋愛模様が中学時代からの筋金入りの関係だったことが明らかにされる前から、彼女たちの繰り広げる狭い世界はどんどん狭くなっていく印象がある。駅と学校を往復するだけの青春は登場人物たちの両親はおろか、兄弟関係すらも明らかにしない。彼女たちを教え諭す担任の教師でさえ極めて影が薄い。勉強も部活動にも夢中にならない少年少女たちの半径数mの日常はくっついたり離れたりを繰り返しながら、狭い世界の中でゆっくりとナイーブな恋を築き上げる。練り上げられたカメラの動きとは対照的に、ここで描かれる横の繋がりだけを意識した物語はどこまで行っても先がない。無味無臭で映画の匂いがしないのが印象的だ。50年後の世代が2010年代の日本映画を振り返る時、猫も杓子も壁ドンばかり繰り返す光景にいったい何を想うのだろうか?
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