カラン

わたしに会うまでの1600キロのカランのレビュー・感想・評価

5.0
アメリカの西部。ハリウッドのさらに南方にメキシコ国境がある。そこからカルフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州、カナダ国境付近まで、アメリカ西側を縦断する「パシフィック・クレスト・トレイル」(PCT)は全長2,650マイル(約4200km)の山岳地帯を踏破する自然歩道。これを登山経験などないだろう女性が、1人でやる、という話し。主人公のシェリル・ストレイド(リース・ウィザースプーン)の自叙伝を、ジャン=マルク・ヴァレ監督が映画化したもの。映画は日付がふられており、1995年9月15日、3か月以上に渡る過酷なシェリルの行脚は、オレゴン州とワシントン州の狭間にかかった巨大なthe Bridge of the Godsに到達したところで終わる。

映画のストーリーも展開も十分に明白であるので、「説明的な描写に欠けており、現今の商業映画的な描出とは異なる」とお考えになる評論家もいらっしゃるようだが、杞憂であるか、勘違いだろう。

ストーリーはネタバレも何もありはしない。敬愛する母親(ローラ・ダーン)が癌で早逝し、麻薬に耽溺し、姦淫し、結婚が破滅した後で、女が長い山道を1人歩き出そうとする物語だ。人生が崩れかけている人間が1人でただただ歩くどうなるか。人には思い出したくてもどうしても思い出せない記憶がある。逆に、執拗に取り憑いてきて、イマージュが視界を塞いでしまい、突き出た枝に顔面を痛打して血を流す、そんな目の前の世界を封じ込めて、前に前に出て来る記憶もある。

果たせなかった母からの想い、気持ちがばらばらになってしまった弟との関係、裏切り続けたが善良で愛情を込めてくれた元旦那との触れ合い、そういう全てが、たった1人で山道を歩むシェリルにつきまとう。幽霊のように母がそこに。

果たせなかったこと、大切にできなかった想いが溢れかえって、襲いかかってくる。この力動をヴァレ監督は、たたみかけるフラッシュバックによって、PCTの雄大で孤高の自然の映像を裁断しまくる。激しく、不規則に、泣き出したくなるくらいに、もはや思い出さなくなるまで、目の前の自然を切り裂く、思い出の閃光で!



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ショーン・ペンは2007年に『イントゥ・ザ・ワイルド』という映画を発表した。これもノンフィクションとされる原作がある。この作品では主人公(エミール・ハーシュ)は裕福な家庭であり、成績優秀で弁護士になることを嘱望されていたが、大学卒業とともに、放浪の旅にでるのだった。メキシコからカルフォルニア北部への旅だから、今回の『わたしに会うまでの1600キロ』と同様のコースであるが、『イントゥ・ザ・ワイルド』の青年はアラスカにまで行く。青年は金持ちで、アラスカの地で最後に《他者》について思索を巡らせ、廃車のバスのなかで1人絶命する。『わたしに〜』の中年の金のない女のほうは最後に橋を渡りながら結婚式を4年後にしようと考える。『イントゥ・ザ・ワイルド』についてレビューを書いた時、なんとなくエミリー・ディキンソンの「逃げる」の詩を引用してみたが、たまたまである。『わたしに会うまでの1600キロ』でも、シェリルがディキンソンの詩を通過地の記録に残す。どちらも鮮烈なフラッシュバックを使っている。

フラッシュバックの嵐のなかで、ローラ・ダーンがゴーストになる。デイヴィッド・リンチの『インランドエンパイア』(2007)も観て欲しい。ヴァレ監督は間違いなくインランドを観てるだろう。インランドはフラッシュバックではないはずなのに、フラッシュバックのように無意識が押し寄せる。

久しぶりにサイモン&ガーファンクルの澄み渡る声を聴いた。"El Cóndor Pasa (If I Could)"(コンドルは飛んでゆく)は劇中で何度かかかり、「釘よりは、金槌になろう」と爪を引き抜くシェリルも楽曲とシンクロする。エンドロールで再度かかり、シェリル・ストレイド本人のスチルが複数映る。

レンタルBlu-rayは5.1chマルチサラウンド。しっかりとした録音であるが、風や山の環境音は控えめ。声を際立たせて、シェリルの孤独を際立たせようとする意図かも。たしかに環境音は控えめではあるけれども、遠く消えていって響きが戻ってこない広大な空間性や、屋内の籠った反響音は、そこそこ感じられるバランス型かな。良いと思います。



以下に劇中で引用されるエミリー・ディキンソンの詩の一節を、全体的に訳しておく。エミリー・ディキンソンの日本語訳って、本当に難しい。見た目は簡単そうなんだけど。


If your Nerve, deny you —
Go above your Nerve —
He can lean against the Grave,
If he fear to swerve —
勇気が自分を拒むなら
勇気の遥か上を行け
逸脱を恐れるなら
墓に身をもたせるがいい


That's a steady posture —
Never any bend
Held of those Brass arms —
Best Giant made?
墓にもたれるならば、ちゃんと立って
屈することは決してない
墓石をつかめば
最高の長物


If your Soul seesaw —
Lift the Flesh door —
The Poltroon wants Oxygen —
Nothing more —
魂がシーソーで揺らぐなら
肉体の扉を開け
臆病者は酸素を望む
ただそれだけを















2023/2/10 追記

ジャン=マルク・ヴァレ監督は2021年12月25日に亡くなった。58歳だった。今になって初めて知った。動脈硬化と不整脈が死因であるとのこと。ケベックの山小屋。1人でいたのだろうか。極めて残念である。残されたフィルモグラフィーをできるだけ辿りたい。
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