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キャロルのchi6cuのレビュー・感想・評価

キャロル(2015年製作の映画)
4.0
興奮した。
LGBT映画と言われるのもちょっと違うと思うほどにこの上なく「女」の映画。同性愛というよりも普遍的な美への憧憬を描いた作品のような気がする。
テレーズの抱くキャロルへの感情は、おそらく女にしかわからない。
そしてきっと多くの女がこの感情に同調してしまう。

同性愛を取り上げた映画はそのセクシャリティの自覚への戸惑いや、社会の差別、同性だからこその情熱的な欲望など、同性を愛したことのない自分からはやはり完全な共感を持って鑑賞することは難しく、自分のセクシャリティとは別の目線での疑似体験として共感を得て感動することが今までであった。
しかし「キャロル」では鑑賞している私自身が主人公キャロルに心奪われる高揚感を実感できる。
キャロル演じるケイト・ブランシェットは、まるで芸術作品のような超人的な美しさを放っており、その身のこなしや目線、髪の毛の揺れでさえも濃縮した空気の中でスローモーションに見えて香りさえ感じられる。
彼女に釘づけになり、全てが気がかりになり、会えない時間は電話の音に敏感になる。

百貨店でなんとなくアルバイトをするテレーズ。
彼女は幼少期から少女的な思考に共感出来ず、電車の模型やカメラなど無機質な造形に惹かれていた。
ある日、テレーズの売り場に買い物に来た貴婦人キャロルに彼女は一瞬にして心奪われる。知り合い、食事をし、友人となるがキャロルは愛に正直であるがゆえに絶望的な不幸の中でもがいていることをテレーズは知る。
そんな二人のつかの間の逃避行が始まる。

キャロルはレズビアンではなくバイセクシャル。
そして、常に愛に忠実である。恋愛も家族愛も、すべてに対して真剣で、自分にも嘘をつかない。
それ故に情熱的で、かわいそうなくらい不器用。
テレーズにとってはおそらく初めて触れる絶対美であり、興味の対象であり、具現化された不幸であったのだろう。
不幸に身を沈めた人間は、常にそこはかとなく美しい。
その美しく哀しきキャロルが絶望の淵で自分を呼ぶ。
性別など関係なく、そばに居たいと思ってしまうのは、当たり前のように思えてしまう。
そして、この「自分が力になれたら」「自分が我慢すれば」という擁護的愛情表現は、まさに女性ならではであり、女同士の愛の構築としては強烈な説得力がある。

同性愛が病気や犯罪と思われていた時代。
女性が一人で生きることが今よりもずっと難しかった時代。
そんな中で美しいがゆえに生きづらく、正直であったキャロルはテレーズとの関係が明るみになることによりさらに不幸の度合いを増し、それでも美しくあろうと尊厳の交渉を続けていく。
「これ以上は醜い争いが待っている。私たちは醜くはないはず」
という言葉が心に刺さる。
美しく生きるとはなんと難しいのだろう。
キャロルと対立する夫でさえ、粗暴なふるまいながらもキャロルへの愛をあきらめられない事が手に取るようにわかる。醜くなどなりたくはないのに、皆美しく愛を全うできない。

これは明らかに愛を描いた作品だが、決してメロドラマではなく登場人物たちは皆愛の先の未来を必死で手に入れていく。他者からの愛を求めるのではなく、愛に傷つき、自力で自らの未来を選び、テレーズも自立した美しい女性に成長する。
「愛をあきらめる事での成長物語」と答えを見つけたか、と思った矢先、あのラストがやってくる。

この瞬間、自分が神のような美を見つけたのではなく、テレーズが神のような美に見いだされたのだということに突如気づいて愕然とする。
憧れという片思いではなく、真正面から惹かれあった恋だったのだとやっと気づき、愛する事への覚悟を持って未来への高揚感に胸が震える。
しかし一方で、その視線にギクリとして、背筋が凍るような焦燥感に襲われ「しまった」と思ってしまった。
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