【『デッドプール』の身体性について】
「あなたの性質がどうなってもあなたそのものは変わらないからそのあなたそのものを愛せるよ」と言うのが真の愛のように思いますが、それをよく表現していた映画でしたね。
ところで、ここでいう「あなたそのもの」とはなんでしょうか。これには、ふたつの答え方(立場Aと立場B)があるように思います。
「あなたそのもの」は、本当はないのだが、それがあって、しかもそれを愛する、と言い続けるべきだとする決意こそが真の愛だと答える立場Aと、
「あなたそのもの」は、本当にあって、それはあなたの肉体全体の物理的同一性のことで、たとえ顔がどれほど崩れてしまってもあなたの肉体全体が崩れてしまったわけではなく、ホメオスタシスによって肉体全体はいつでも構造が同一に保たれているではないか、だから、それを私は愛するのだと答える立場Bです。
ちなみに僕は、立場Aのことを当為問題としての愛、立場Bのことを事実問題としての愛、と呼んでいます。
では、『デッドプール』という映画作品におけるヴァネッサは、立場Aと立場Bのどちらを取っていたのでしょうか。
どちらにせよ、ウェイド・ウィルソンの顔面が崩壊しても、ヴァネッサの愛は滅びませんでしたね。
ここからは僕の個人的な意見ですが、僕にはヴァネッサは、立場Bを取っていたように見えました。
ヴァネッサのラストのセリフ、
After a brief adjustment and a bunch of drinks, it's a face I'd be happy to sit on.
というセリフは明らかに肉体構造を支えつづける核(というか生命)は変化していないということに注目したセリフだ、とも取れそうだからです。
もちろん、立場Aと立場Bのどちらかを選ばなければならないわけではなく、このふたつの立場は両立する話なのですが、このヴァネッサという人は、不可能な約束あるいは決意としての愛だけでなく、そのような跳躍を最初から支えてきた相手の身体性をも、敏感に自覚しているように見えました。
「あなたがどれだけ変化しても変化しない核を愛する」という約束は、そもそも「絶対に変化しない核」というものが存在しないため究極的に言えば、履行不可能な約束です。しかし、そのような履行不可能な約束を締結することへと人が(非合理にも)飛躍してしまうことができるのは、なるべく変化しないように普段から代謝を続けている相手の肉体の全体にその人が気づいているからだと思うんですよね。
相手の無時間的同一性を言えるのは、相手の有時間的同一性を前提しているから、つまり、立場Aがありうるのは、そもそも立場Bがあり得るからだと思います。この前提と被前提の関係が見やすい映画こそが『デッドプール』だと僕は思っています。
以下は、余談です。
じつは、立場Cとして、「あなたのすべては毎日変化していくのだけれども、そのような刻々と変化するあなたこそを私は愛しているのよ」という変化を強調する立場があると思いますが、僕はこの立場はあんまりうまくいっているとは思えません。
なぜなら、ある人の変化を言うためには、変化しないその人を前提する必要があるからです。
例えば、僕の髪型が変化したと言えるのは、僕の肉体や骨格は変化していないという前提があるからですよね。
だから、立場Cの人は、一方で「あなたの全ては変化する」と認めているくせに、他方で同時に、「変化していくそんなあなたが好き」と言ってしまうのはあなたそのものは変化しないことを認めていることになるで、矛盾だと思います。
結局、立場Cの人も、あなたの中に変化しにくい部分を認めているわけですから、立場Cは立場Bに帰着できると思います。