すず

セッションのすずのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

名門音大 シェイファー音楽院にて、才能を秘めし新入生のアンドリュー•ニーマン君と、クソ野郎の奇人変人才人フレッチャー教授の狂気のスパルタレッスン物語…。

遅い、速い、の無限鬼畜テンポ指導。平手打ちに度の過ぎる罵詈雑言、耳元で打ちつけたカウベルをそのまま怒りに任せて投げつけ、ドラムセットを破壊する。こっちは何が遅いのか速いのかよく分からんけど、フレッチャーのこめかみの血管はもう怒りでビッキビキ状態で、今にもぷっつんイきそう笑。

観ていてふと突然、チャック•ベリーとキース•リチャーズの『Johnny B Good』のセッションシーンが頭に浮かんできた。チャックがキースにイントロギターの誤りを指摘して延々と弾き直させる映像である。(『チャック・ベリー ヘイル! ヘイル! ロックンロール』より)

ああいうネチネチと女々しい感じ、緊迫感があり、どこまでが本気で、ジョークなのかよく分からないやつ。昔 初めてあれを見た印象は決して快いものではなかったが、この機に再見してみたら、何てこともない、ほのぼのとした微笑ましく感じられるほどの映像であった笑。

本作は、一才のジョークを排し、その嫌がらせの様な嫌悪感を極限まで膨張させた、最もいやらしい代物だ。スネアに滴る汗と涎と血液と、吐きだされる下劣な言葉。

壁に貼られた偉大なジャズマンの言葉が見える。〝無能な奴はロックをやれ〟

ジャズ界隈に特有の(?)、その他の音楽を見下す雰囲気、かの偉大な音楽家たちに人格者なんていないように、我こそが最も〝高尚〟だという自負に基づく狭量な態度(偏見かもしれないが)、本作にはそういった、ジャズ至上主義的な雰囲気をそこはかとなしに漂わせている。それは、フレッチャー教授に限らず、ニーマンがニコルや他者と接する態度も然りである。

どうして彼らが、ジャズ至上主義的高慢に陥るのか、それを裏付けるものがここには描かれている。こんなものを見せられたら最早ぐうの音も出ないほどの完璧に 完全なる狂気の世界である。そこで血反吐を吐きながら高みを目指していると、その他大勢が腑抜けて見えるのかもしれない。

最初 これはサディストとマゾヒストが生命を削り合いながらお互いが絶頂に達するような(勿論、比喩として)物語かと思ったが、違う、ニーマンもまたサディストである。まるで、音楽家同士の刺し合い、殺し合いを見ているかのような、重苦しい憎悪と殺気が劇中に張り詰めていく。

偉大なる狂気のジャズマンたちと その神がかった演奏に心酔した〝ソシオパス〟のフレッチャー。

あまりにも強烈な悪意に鞭打たれて覚醒していくニーマン。彼の孤独や、疎外感が徐々に炙り出され、彼もまた狂人であることを知る。

〝狂気の世界〟と〝平穏な世界〟があって、その境界となる扉から、ニーマンの父親は息子を静かに見つめていた。その視線の感情が胸に迫る。

感情のジェットコースターに乗せられて、おもくそ振り回されて揺さぶられた気分。こちらの生ぬるい期待は軽く裏切られるし、生半可な悪意や狂気ではないから、途中でゲロ吐きそうなほど気持ち悪くなったけど、〝只々 純粋な芸術への渇望〟が根底で絶対的にあるからこそ、殺意を抱くほどに憎しみ合い、貶め合っているのに、引かれ合い、離れられないのだ。

鬱積に鬱積を重ね、ひたすらに嫌悪感を塗りたくられたからこそ、クソ最高な至福の瞬間、極上のカタルシスが待っている。鳥肌ビンビンで笑顔が沸き上がる。もう、それですべてが完全に善しとなる。クソ最高な映画だった。音楽ものなのに、そこでは一般的には味わわない感覚を刺激され、そこから無二の景色を眺める作品。

最近5点の付け方が分からないけど、4.5にあとは気分と勢いだ!


「チャーリー•パーカーが〝バード〟になれたのは、ジョー•ジョーンズにシンバルを投げられたからだ」
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