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セッションのzunzunのネタバレレビュー・内容・結末

セッション(2014年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

J・K・シモンズ演じるフレッチャー教師の猛然と悪態を吐くシーンはまさにハートマン軍曹を彷彿させる。
((しかも最初の餌食がフルメタルジャケットのデブちょそっくりで思わず吹いた))
鬼教師の良し悪しの議論は分かれるだろうが、鑑賞中は考える余裕さえ与へられない。まるで洗脳されていくような感覚でJ・K・シモンズの演技に釘付けになる。
J・K・シモンズ演じる鬼教師が教壇に立つ際の“その場を制圧する圧倒さ”はまるで神聖さを帯びた教祖のような存在に見えた。
何人たりとも俺の神聖な領域は乱させない。俺が放つ言葉は神託だ!と言わんばかりだ。
彼の楽団は選ばれし者だけが入れる、“ある種の信仰性を帯びた団体”だ。そこは才能と恐怖に支配された…
そこから脱線はその世界での敗北を意味する。

この鬼教師に最も感化されるのが主人公アンドリューのように思えた。((他の者は上手いこと折り合いをつけていたように思える))
アンドリューと鬼教師の師弟関係は教祖と信徒の関係に近いように思えた。
アンドリューは彼の“教典”にのめり込む。

◎教義……【極限までの努力を積み重ねれば天才の領域までなれる..だから人格すべてを放棄し、俺について来い】

演奏者が常軌を逸した精神状態に追い込まれる描写は映画『シャイン』を彷彿した。((それがよぎった為、アンドリューがいつ精神に異常きたすか危なかしくて、緊張感が尋常でなかった))
だが主人公アンドリューにはシャインのピアニストのような繊細さや神童ぷりはない。
きっと才能溢れるものから見れば、彼は単なる“少しだけ優れた常人”でしかない。
だからこそ彼は“教義”にのめり込み、恋人もすべてを犠牲にして総てを遮断する。まるで荒行に励む出家僧のようだ…

彼は音楽を愛して止まないが、彼の音楽への行為は言わば自己実現の手段でしかない。
世間を見返す為、名声を手に入れる為、その他諸々…
すべては自己実現の為に!

そして次第にアンドリューは『俺が一番お前の“教義”を実行している。すべてを犠牲にしている。だから俺には権利がある。なぜ俺は認められないんだ』と言わんばかりの態度を取るようになる。
しかし、鬼教師は決して“音楽の聖人”などではない。時には温情的で礼儀正しいくもあるが、狡くて、執念深く、そして“若い才能を潰す”過ちも犯す……極めて狡猾な人間だ。

主人公の密告の選択シーンで、幼き頃の純粋に音楽を楽しんでるいた場面が頻繁に映し出される。 そして自分の過ち、愚かさに気づき……
フレッチャー教師の教えやあり方は正しかったのだろうか……
躊躇しながらも、密告する。

フレッチャーのピアノのひきがかりシーンは寂しそうでもあり、穏やかで純粋に音楽を楽しんでるようでもあった。

ラストの演奏会…そこには場違いな“やるかやられるか”の精神!
音楽の精神をある意味で裏切り続けた2人。ところが行き着く先は…すべての鬱憤が爆発する‼︎
予期せぬ反骨は遂に2人を聖域までに昇華させる。
そして聖域に我々観客までも誘う。

J・K・シモンズの圧倒的存在感には脱帽だが、彼の演技の真髄はコンマ何秒の間にすべてを語る瞳の演技!何かを企んでいた瞳は、ラストには偽りのない微笑みの瞳に変わる。

すごい…本当に凄い作品。
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