カラン

蘭の女のカランのレビュー・感想・評価

蘭の女(1990年製作の映画)
3.5
『ナインハーフ』を借りようとしたが、なかったので、『蘭の女』にした。原題は”Wild orchid”で、野生の蘭。蘭というと、マルグリット・デュラスが『モデラート・カンタービレ』という小説で、屋外に行きずりの男がいて、豪奢な屋内ではブルジョワが集って晩餐が開かれており、吐きそうなほど美食が運ばれてくるが、食欲がなく酒が止まらない妻の胸に挿された蘭が溶けていく、といったような描写をしていたのを思い出す。蘭は貞淑と抑えられない情欲なのだろう。

☆エキゾチック

『蘭の女』はエキゾチックな誘惑に溢れている。舞台はブラジルのリオデジャネイロ。コルコバードの巨大なキリストを空撮で旋回しながらたっぷり映す。海も。サンバも。はだけた胸やさかんに振る尻。本作の空間描写はかなり多めで、ゆったり長いシークエンスを構成するブラジルの観光PRにとても熱心である。

こうした月並みな南米の観光ショットは、アルゼンチンはブエノスアイレスを舞台にした、レナード・シュレイダーの『ネイキッド・タンゴ』(1990)よりも、映画空間の作り方としては真っ当であろう。『ネイキッド・タンゴ』はタンゴによるエロスとスリラーにのみ拘泥して、主題のまとまりと雑味の排除でアートムービーに向かおうとする。しかし、抽象性を高めることがユートピアに至るというよりは、学芸会的な次元で止まっているだろう。ブエノスアイレスの土地と文化の魅力を活かそうとしないからである。他方で、マルグリット・デュラスなどは自ら監督した『インディア・ソング』で、インドかパキスタンかのフランス大使館が舞台なのに、パリ近郊のシャトーで撮影したわけだが、アジアの怪しい熱気が立ち込めており、南アジアの夜の匂いにむせるほどに、固有な空間を描き出す。映画の魔法だ。

本作はリオの風物をたっぷり利用するのは、デュラスのような固有の映画空間を独創するほどの持続的な努力(彼女はアジアのユートピアを何作に渡って作品化してきたというのか!)と才能を持たない作家が使う手段として正しいのだ。本作はそうしたリオのエキゾチックをミッキー・ロークが演じる男の官能と危険さで少しだけ色付けして、ただの観光VTRを回避している。

☆結合

ミッキー・ローク演じる男は、やらない。キャリー・オーティス演じる田舎の女を見ている。田舎の女を車に乗せて、その車内である夫婦の性交を見せる。他人の性交を見ている田舎の女を男が見る。あるいは、前後するが、弁護士の男(ブルース・グリーンウッド)と田舎の女を交わらせて、その動向を外で伺っている。なぜこの男は田舎の女とやらないのだろうか?

そろそろ映画が終わるだろうかと感じ始めたシーンで、女が男に「触って」と前をはだける。男は拒む。立ち去りかけて、「君を失いたくないからだ」と男は泣きそうな顔で言う。男はセクシーで危険なタフガイでは、なかったのだ。

このような間抜けな展開の果てに、男と女がいよいよ交わる。カメラはベッドの手前の床でたっぷりと激しく性交するのをスロモーションで接写するが、テンションを上げようというのか、格好つけたかったのか、カットは落ち着きがない。ミッキー・ロークは薄く笑って相変わらず女を見ており、キャリー・オーティスは喘ぐというところの手前で口を開いて静かに目を閉じている。ミッキー・ロークの手は結合部位の上に置かれており、モザイクはかからない。本番行為ではないらしい。やっているように見えるが。この2人はこの後、結婚して、しばらくして離婚した。エロビデオでも映画でもなくして、せいぜいお二人の蜜月のメモリーにしかならないものにする監督の手腕に驚くしだい。


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