かなり悪いオヤジ

エレナの惑いのかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

エレナの惑い(2011年製作の映画)
3.5

資産家ウラジーミルの後妻におさまった元看護師エレナ。ソ連時代を知る中年女性の心理変化を通じて、連邦崩壊以降ロシア社会がどう変わったのかを描いた問題作。私とほぼ同世代のアンドレイ・ズビャギンツェフが撮った作品はデビュー作『父、帰る』と直近の『ラブレス』しか見ていないのだが、本作もまた観客に明解な結論は提示されていない。後は映画を見たあなた方自身で考えなさい、という作品である。

元々40分の短編作品程度の分量しかなかったシナリオを長編にするために、絶対な効果を発揮しているのが監督お得意の余白演出である。主人公のエレナと資産家の夫ウラジーミルが最初の会話を交わすまでなんと8分。カラスの鳴き声しか聞こえない沈黙のシークエンスが冒頭から延々と続くのである。映画の中に“リズム”を生むためにはどうしても必要だったと語っていたズビャギンツェフだが、凡人の私にはとても理解の及ばない言及である。

一見ロケ撮のように思えるリッチなウラジーミル邸とエレナの息子セルゲイ一家の住む貧相なアパートだが、すべてスタジオ内に組まれたセットだというから驚きである。エレナが淡々と家事をこなすシーンが数多く盛り込まれているのだが、まるでフェルメールの絵画のような芸術的奥行き感のある映像は、不思議と見飽きない。この辺はタルコフスキー譲りの美的センスといっても過言ではないだろう。

舞台をイギリスに想定していたもののプ
ロデューサーと意見が合わず、モスクワへと変更。それに伴いいくつかの修正がシナリオに加えられているという。その1が、心臓麻痺で倒れたウラジーミルのためにエレナが教会へお祈りをささげにいくシーン。その2が、停電の後孫のアレクサンドルが仲間と共に乱闘を繰り広げるシーン。そしてラスト、ウラジーミル殺害の後邸宅に引っ越してきたセルゲイ一家と、何事もなかったかのようにエレナが団欒するシーンが追加されたという。

ソ連崩壊後も、国内にいまだ根強く残っている家父長制度と男尊女卑の風潮。『カラマーゾフの兄弟』に登場する“商家の嫁”をモチーフにしたエレナによって、その象徴ともいえるウラジーミルは(列車にひかれた白馬のごとく)あっけなく他界してしまう。善も悪も気にする必要が無くなったプチ・ブルジョアに属する人間の心にこそ悪魔が住みやすい、てなことを【その1】で表現したかったらしい。

金儲け主義の資産家ウラジーミル、その後妻におさまっているエレナ。ウラジーミルやエレナから援助を受け無気力に生きるカタリーナやセルゲイもまた、ズビャギンツェフのいう“心に悪魔が住んでいる”人々なのであろう。しかし、監督はここでささやかな希望を観客に提示するのである。敵方の不良にこてんぱんにやられた後ムックリと起き上がる孫のアレクサンドル、そしてウラジーミルが死んだベッドで眠りから目覚めた赤ちゃんに一筋の光を見出だしているのだ。それは、葉をすべて落とした枯れ枝の中でいまだ姿さえ見せないつぼみのごときかすかな希望なのではあるが...