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ネオ チンピラ 鉄砲玉ぴゅ~のshishiraizouのレビュー・感想・評価

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1990年、Vシネ黎明期。Vシネマ、殊に旗艦「東映Vシネマ」及び哀川翔の方向性を決定づけたのがこの『ぴゅ~』だった。

工藤栄一監督『泣きぼくろ』(91、これはこれで良い映画でした)と同じ安部譲二の『泣きぼくろ』が原作なのに、話がぜんぜん違うようにみえるのは工藤版が(も)原作の一部のみを使ったこともありますが、『ぴゅ~』の脚本は元々『泣きぼくろ』を原作としたVシネマのオムニバスの第2話として書きはじめられていたもので、第2話の担当となった西岡琢也が6、70枚書き進んでいたところ急遽制作中止の電話が渡辺敦プロデューサーから入る(つまり、そもそも安部『泣きぼくろ』のごく一部の話だった)。「一応ストーリーはラスト迄作ってあったので、()他にする事もないので最後迄書き上げて」(西岡)放置しておいたが、後で読み返してみるとなかなか良く思え、書いたモトを取ろうと渡辺敦Pに連絡をとると「本格的スタートになったVシネマに採用」された。
(東映が、ビデオ専用映画の企画を手探りで始めた頃にあがった企画の一つに安部原作、山田耕大と一色伸幸共同脚本、中田新一監督というのがあったという。『ぴゅ~』の元となったオムニバスというのが、それかもしれません)

企画会議では難色を示されるが、結局89年3月の『クライムハンター』から始まる「東映Vシネマ」の、第2期10本中の1本としてラインナップされる。高橋伴明は哀川翔でいきたい、と言った。

80年代後半。レンタルビデオという文化も最盛期を迎え、邦画メーカーは「メジャー旧作をほぼ出し尽くしてしまった上、劇場新作の目玉が不足しだし」、「玉を揃えて安定供給していくことがどうにも難しくなった」。そこで「最後のタマとしての『仁義なき戦い』シリーズを()87年12月からリリースし始めた東映の、タマ切れ後の新たな戦略として登場したのが「東映Vシネマ」である。」(谷岡)

89年12月、ついに最後のタマ『その後の仁義なき戦い』がリリース。その5ヶ月後、90年5月発売の『ぴゅ~』が、大ヒットする。
ユーザーは重厚なボスでもプロフェッショナルな暴力者でもなく、初期ラインナップで最も『仁義なき戦い』イズムのある、「ネオ」な「チンピラ」の哀川翔を選んだ。

「これを作った吉田達は、Vシネマの父である。()東映本社で、任侠映画の父・俊藤浩滋とともに任侠映画を量産し、声がデカく、威張り方もほどよく枯れて、キングオブ古きよきプロデューサーだ。東映東京撮影所で彼は()『ぴゅ~』のビデオを持参してきて、裏ジャケットのスタッフの名を、一人一人いちいち指さし、フルネームを挙げては、「この写真の後、大活躍した」と機関銃のように」まくしたてた。(谷岡)

ビデオは3万3千本のセールスを記録(東映でのヒットの基準は2万本、92年以降は1万本。東映以外なら5千本がヒットの基準)、200回超と高回転したテープもザラだったという。

『ぴゅ~』のヒットにより、伴明監督の念願の企画であった金子正次(『竜二』(83)脚本・主演)の遺稿『獅子王たちの夏』の映画化が91年東映本体で実現(のちに川島透と青山真治の手により映画化されることになるシナリオ『チンピラ』映画化奔走のなかで金子正次は伴明と出会い、伴明は脚本家としての金子に注文し『獅子王~』第一稿が書かれた)。最終的な共同脚本には『ぴゅ~』の西岡琢也の名が、主演には的場浩司とともに哀川翔の名があった。

「(『ぴゅ~』の哀川翔は)金子正次の作った画期的チンピラ像に近いと思うんだ。鉄砲玉に指名されてビビる、逃げることに主力を置いて、カッコ悪さを描いていく」(荒井)
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