拘泥

ピンクサロン 好色五人女の拘泥のレビュー・感想・評価

ピンクサロン 好色五人女(1978年製作の映画)
4.7
観てない人は何一つわからんレビューになってしまったけど感動ポイントが深すぎてこうならざるを得ない。ということで誰しもに前情報もなくこの映画を観てほしいが、観れる場所などおそらくほぼない。この世はクソなので。いやまあどうせ観れてもほとんどの人はこんな感動しないんだろうけどさ。

さて、性風俗が売り物とする性とは何よりも純粋な性であるか?と考えたことがある。何よりも純粋な性とは何であろうか。セックスだろうか。考える程、人生を生きる程それは違うような気がする。性風俗はセックスの代用を売っているのか、マスターベーションの代用を売っているのか。マスターべーションはセックスの代替のはずであろうか。本来はそのようなはずだったか?しかし現実はそれとは少し違うのではないか。人の営みという連関の中で、文化として行為が営まれる中で、それぞれのものは、それぞれとなっていく。
ピンクサロンはセックスの代替ではなく、マスターベーションがセックスやピンクサロンの代替では決してないこと。それと、映画というものは現実の代替ではないこと。どういう訳かこれに美しいまでの一致をさえ感じる。想定された構造が倒錯し、或る物がそれそのものになる為に彷徨い始めるその瞬間に醸成されるモノという構造がそれ自体として垂涎であり、日活ロマンポルノというものはどうやらその極みのようである。

と勢いに任せて長々言ってっけどこれ内容にはあんま関係ないっす。勝手に思い馳せただけ。

内容に触れるとこの映画は、ジジイの発した「琵琶湖を知ってる目をしている」に代表される天才的に突飛な展開、セリフ、要は脚本とそれを支える音楽、画面、要は演出、それらがラストの展開と表し方まで含めてブチギレに狂っているのですが、しかしそれはあまりにも「分かり過ぎている」故なので、当然のようにまとまっているという、いや天才としか言いようがないです。

過剰なハイテンションの連鎖に、とってつけたように突如強烈な死の匂いが立ち込めて、その上でまた爆熱を呼び起こすことさえも、こんな奴らは死んでしまうしかないという自然法に則れば当たり前って異次元のアクロバシーに死にます。
「前に行くしかないんだ!」とかいうかっこいいセリフが、実際のところは後ろなんていう地獄の狂人のゴミ溜まりを見るわけにはいかない故だったりして、しかしながらそれでも前へ突っ切っていくポジと過剰故に破滅的なユーモアととってつけた虚無の同居、躁と鬱をはじめとした陰陽の全てを内包した一枚画で爆死する、さらにそれを前述のアクロバシーに納得させる。いやこの爆はもう完全に『気狂いピエロ』なんて比べ物にならんくらいぶち抜けてますよ。

これが出てマル秘色情めす市場が出ているのだから、日活に彼らがいて、その彼らがロマンポルノという最早二度と起こり得ぬ奇跡の異形の中にあったことを未来永劫讃え続けるのが、残されたものに託された使命に違いないはず。にも関わらずDVD化されず。何このザマ。映画市場と著作権って本当にクソですね。
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