蛇々舞

トイ・ストーリー4の蛇々舞のレビュー・感想・評価

トイ・ストーリー4(2019年製作の映画)
3.0
スター・ウォーズの登場人物になったような心地だった。

トイ・ストーリー4制作決定のニュースを観た時、俺は呟いた。

「嫌な予感がする」

……まぁ、それは後で語るとして、トイ・ストーリー4は、映画として良い出来であった。

思えば、

「持ち主の手元で遊ばれてこそ、玩具の幸せ」

それが、これまでの3作品共通の、大前提。

ウッディらは、ひょんなことから持ち主たるアンディから引き離されては、彼の元へ帰ろうと奮闘する。
アンディと再会し、もう一度、遊んでもらうためにこそ、繰り返し困難を乗り越えるのだ。

そして、ついに「3」ではアンディも大人になり、玩具との決別を余儀なくされる。
アンディは、もう遊ぶことのないだろう玩具を惜しむ気持ちにケリをつけ、
ウッディらは「子供と遊び、成長を見守ることこそ玩具の喜び」という役割を思い出して、次の持ち主、ボニーの手に渡ることを決意する。

では、「4」は?

「そもそも玩具って何なんだい?」というアプローチが、新たに採られたといえるだろう。
まさに全てを引っ繰り返す禁じ手が放たれたのだ。

その驚きの展開とは?

是非、その目で確かめてほしいようなそうでもないような!


~以下、ネタバレあり~








新たなアプローチについてだが、これは本作のキーマンである新キャラ「フォーキー」に象徴されている。
彼はボニーがゴミである先割れスプーンを材料に自作した人形で、それにより意識が芽生えた。

ところが、フォーキーは自分のことをゴミだと認識し、ゴミであることにアイデンティティを見出す。
何度もゴミ箱に戻りたがる彼を、ウッディは辛抱強く連れ戻しては、「君はゴミではなくボニーの玩具だ」と説得するのだった。

ここで、興味深い逆転現象が起こっている。

自分をゴミだと信じるフォーキーは、その実、ボニーのお気に入りである。
彼女は自分で工作した、その友達に夢中で、眠る時はベッドにまで彼を連れ込もうとするのだ。

一方で、玩具であるというアイデンティティに縋るウッディはというと、今やボニーに相手にもされていない。
果たして、遊ばれなくなったウッディは、本当に玩具と呼べるのだろうか。

それは、ゴミで出来たフォーキーへの、玩具なのか? それともゴミなのか? という問いに呼応するだろう。

ゴミで出来ていても持ち主に求められるフォーキーが玩具なら。
玩具でありながら持ち主に求められないウッディこそ、ゴミなのではないか?

「それでも玩具は、持ち主に遊んでもらうのを待っているしかできない。持ち主の元にいることこそに、意味があるんだ」

そこに疑義を呈するのは、本作のヒロインであるボー・ピープだ。
彼女はスカンクのヌイグルミを被せたラジコンカーに乗って、あちこちを旅する、いわば〝野良玩具〟であった。

「子供たちは、世の中にたくさんいるのよ」

「広い世界を見てみたいとは思わない?」

果たしてウッディは、ボニーの元を飛び出し、共に世界を巡る道を選ぶ。

クライマックスからラストにかけての彼は、ボーと共に、行き場のない玩具たちを、子供たちの手へ導く活動に邁進していた。
ウッディたちのような古い玩具たちが愛されたからこそ、今日も新たに玩具が生まれ、子供たちに遊ばれているのだ、というメッセージだろうか。

そう考える根拠としては、今作においてウッディが、ある意味で「死」を迎えたと受け取れるということがある。
彼は劇中で「オレのブーツにゃガラガラ蛇~」に始まるおなじみのセリフを、発する能力を失う。
そして、それを新キャラのギャビー・ギャビーに引き継ぎ、彼女を遊び手たる子供の手へ送り出す。

そのように、ウッディは人と玩具との間に介在する、いわば〝玩具を超えた玩具〟としての立ち位置を手に入れるのだ。
世代交代を経ての、ネクストステージ。
あたかも肉体という殻を捨て、概念としての存在へと昇華されたかのように。

言い換えるなら、これまでのシリーズで「ウッディたちは(物理的に)そばにいるよ」となっていたのが、
「ウッディたちは(観念的に)そばにいるよ」ってな感じに更新されているということになるだろう。
(あれ? この、哲学的な観点から、別アプローチで同じテーマを新しく語ろうとするとことか、虚淵玄的じゃない?)

で、モチーフとは別に作品テーマとしては、「未来を見据えよう」ということになるのかもしれない。

世の中というものは常に一定でなく、日々アップデートしている。
例えば人の仕事がAIに取って代わられようとしているように、それぞれの役割に期されるものは変化するのだ。

かつて求められたから。
かつて良い思いができたから。

そんな過去の経験を当てにして、また同じ成功が降ってくるのを期待して待っていては、いけない。
だって、それは、もはや失われてしまったものなのだ。

意識を変革せよ。
そこに貴方の席が無いなら、挑戦しなければならない。
先の見えない道のりであろうと、勇気を持って踏み出し、自分の価値を、居場所を勝ち取るのだ。
デューク・カブーンや、ギャビー・ギャビー、ついにはウッディが、そうしたように。

まさに「幸せは歩いてこない。だから歩いていくんだね」を地で行く作品であった。

最後にウッディを、バズが送り出すシーンは感動的だったし、涙がこぼれてしまった──。



……うん、その上で、言いたいことがある。



〝野良玩具〟って何やねん(怒)


思い返すだに、「トイ・ストーリー3」のラストは、完璧であった。

アンディにとっては最後まで、ウッディたちは玩具に過ぎない。
ウッディたちもまた、一線を守って、その立ち位置を貫いた。

それにも関わらず、両者には確かな絆があった。
共に過ごしてきた時間があり、それだけ育まれた愛情があった。

だからこそ、両者の別れが、あんなに切なくも感動的だったのではなかったか。

決して悲しい別離ではなかった。
少年が、本当の意味で大人になったこと。
それを誇らしげに、でも寂しそうに見送る玩具たち。
でも、新しい持ち主が彼らを迎え入れ、アンディがそうしたように、ボニーもまた、ウッディたちと時間を紡いでいくのだと──そんな予感を抱かせる、前向きな明るさがあった。


それが、今回の「4」で、どうなったか。


結論から言えば、そんな未来は存在しなかった。
我々の抱いた予感、誰もが想像を巡らせたろう日々は、楽天的な幻に過ぎなかったのだ。
ボニーはウッディを蔑ろにし、押し入れに仕舞い込んだ結果、彼を玩具でなく〝ゴミ〟へと変質させる。

あの、「3」のラスト。
アンディが一つひとつ玩具を箱から出し、それがどんなものかを説明して。
最後にウッディを見下ろして、ハッと躊躇い、それでも「大切にしてね」と手渡して。

そして、その結果が、これなのか。

いや、解っている。
アンディが、どんな風にウッディと過ごしてきたのか、そんなことはボニーには知る由もない。
ボニーは女の子なのだし、カウボーイの人形を特別に贔屓する可能性は、もともと高くなかったんだろう。
そもそも、おさがりの古い玩具だ。
どうして幼い子供が、いつまでも、それらに旺盛な好奇心を固着させておくだろうか。

〝現実的に考えれば〟

玩具たちがアンディに遊ばれていたのと全く同じに、ボニーの元でも満足を維持し続けることは、ほぼ不可能なのは自明だった。
それに、どんな出来事も「めでたしめでたし」を迎えてからが、一番困難な局面になるものなのだ。

でも、少なくとも俺は、そんな〝現実的〟を突き付けられたくはなかった。

今後、「3」を見返したとして、アンディがボニーに玩具を譲る──とりわけウッディを、寂しそうに──シーンで、「やめとけ」と思わずにいられない。
そのガキは、ウッディを大切になんぞしやしないぞ、埃まみれにするだけだ。
「あばよ、相棒」とアンディの車を見送るウッディには、「彼を追いかけて一緒にいろ!」と叫びたくなる。
俺は、もはや、あの名シーンを幸せな心地で見守ることが叶わないという、呪いを負わされてしまったのだ。

そもそもがトイ・ストーリーは「玩具が、みんなの知らないところで意思を持って動いているかも」という物語なのではないのか。
誰もが一度は夢想する「もしも」を映像化したのが、このシリーズだったのではないのか。
それを、冷水をぶっかけて「いつまでも酔ってんな。これが現実ってもんだ」と言うのか?

正直、身も蓋もない。
「はあ、そうですね」と言う以外に、なんと答えられるっていうだろう?

もちろん、これはテーマを語る上でスタッフが選んだ手段に過ぎず、作品の本質ではない。
それを理解した上で、その語り口が気に食わん、という個人的感想が、まずひとつ。

ふたつ目。

冒頭に「嫌な予感がする」と書いたが、そう思ったのは昨今のディズニーの傾向の中に、

「既成概念(誰かに規定された在り方)から抜け出そう」

というものがあると感じていたからだ。

プリンセスは王子様に救われるだけの存在でいなくても良い。

悪名高いヴィランでも、愛する心を知って母親になったっていい。

もうどうにでもなれ、ありのままでいいの。

だからこそ、薄っすらと予感していた。
ウッディは、もしかしたら、「玩具としての役割」を放棄する道を選ぶのではないか、と。

果たして想像は、おおむね現実になった。
「玩具とは何ぞや」という哲学的問答を設けたことで「いや、これも玩具の一つの在り方じゃない?」みたいな逃げ道を用意したにしろ。

いや、でも待ってほしい。

老いた消防士がいたとする。
彼としては現役のつもりだが、若い消防士らが、

「火事場は危険っすから! おやっさんは、ここで待っててくださいよ」

と現場へ急行。
結局、担当地域の消火は彼らだけで間に合ってしまう。

「いや、でも俺も消防士なんだし、こうしていれば、いつかお呼びがかかるかもしれんし。そしたら消火活動に参加して……」

「ちょっと待って! 担当地域以外でも家は燃えてるよ! 消防署なんて飛び出して、自由に火を消して回ろう!」

「その手があったか! 俺、消防士やめる! でも火事には関わるつもりだから、本質的には消防士!」

……って、なるか――――い!!
これ、なんか解決してるんすか? してる!? どう考えても、してないよね!?

野良玩具って、そういうことでしょ。
いや、なんなんだよ野良玩具って!?
それ玩具じゃねぇじゃん、それはもう、なんか一種の生き物ですよ!!

もう一度、言うよ。

〝野良玩具〟って何やねん(怒)(怒)

いやね、そもそも論になるんですけども。

〝規定された役割からの脱出〟っていうテーマ自体、トイ・ストーリーにはミスマッチだったんではあるまいか。

だって言うなれば、今まで「与えられた役割を全うする尊さ」を描いてきたわけですよ。
玩具っていうのは、人が成長する過程で、彼ないし彼女の感性を受け止め、日々を彩り、やがて卒業されていくもの。
ウッディで言えば、アンディへの〝愛〟を持って、彼を見守る。
アンディが人として大きくなればなるほど、ウッディたちの存在も確かなものになる。
限りある日々だけれども、大事な人の時間を、有意義で実りあるものにできる喜び。

要は「玩具だよ」って生き方に如何に意味を見出し、全うして、自分と他者に良い影響を与えるのかって話でしょ。
持ち主と玩具との、不思議な相互愛が、トイ・ストーリーのキモだったでしょ。
玩具が、あくまで玩具っていうルールの中でドラマを展開するのが、良かったわけでしょ。

それを「玩具やめちゃってよくない?」って、いいわけねぇだろーがアホか!!

もちろん、旧シリーズ的な玩具の在り方も認められていて、それを体現するのがギャビー・ギャビーだし、居残るバズたちであるのだ。

でも、ウッディは行ってしまう。
ウッディだけが、と思うなかれ、ウッディが行くということは、トイ・ストーリーシリーズそのものが、行ってしまうということだ。

ちゃぶ台返し、と言うのだろうか。
あの「3」に、こんな結末をつけ足したことが、俺には納得できない。
いくら遊ばれないウッディの苦悩が良く描かれていて、そこからの解放が、彼への救済になっていたとしても。


同時に、こうも思う。

これは旧3作に拘泥する、時代に取り残された観客の、うるさい喚きに過ぎないのかもしれない、と。

あらゆる固定観念を打破しようとしている今、現状に疑いを抱くというのは大切なことだ。
それを知っている現代の子供たちは、ウッディの旅立ちを純粋に良いものとして受け止めるのかもしれない。

与えられた役割を把握し、そのためにベストを尽くすこと。
それは、どういう形であれ、もはや歓迎されるべきではないのだろうか。

どうあれ時代は動いているのだ。
なにせトイ・ストーリー1作目の公開から、もう24年である。
長い年月が経ったのだなァ、と、いろんな意味で噛み締めさせられる映画だった。
蛇々舞

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