『詩のことは、あまり信用していないんです』
谷川俊太郎は、そう語る。
『いつも、嘘をついているような感覚があるのです』
谷川俊太郎は、そう語る。
『震災の後、色んな詩がYoutubeなんかで流れましたでしょう。それはとてもありがたいことです。詩は解釈の幅が広いです。そうやって、誰かの心に届く詩もきっとあるでしょう。
でも、「被災者のために」と言われれると、それは違うと思ってしまうんです』
谷川俊太郎は、そう語る。
『詩は、そんな大層なものじゃないです』
谷川俊太郎は、そう語る。
『詩は、何かを救うわけではないんです。ただ、視点を変えますよね。本当に、微小な力ですけれど』
谷川俊太郎は、そう語る。
失われた空白を、
言葉は埋めうるか。
詩集を手にしたこともないという監督は、谷川俊太郎に、「言葉についての詩」というテーマを託す。しかしそれは、決して、映画の「始点」ではない。
この映画は、「谷川俊太郎」についての映画ではない。この映画の中で、谷川俊太郎は「言葉」だ。「言葉」として、彼は登場する。
この映画で描かれているのは、「失った人々」だ。「失われた後の空白」だ。「失われそうな存在」だ。
「言葉が失われた場所」を切り取っていく。
「言葉が下りてくる瞬間を撮影できないか」 監督は当初そう考えていた。
しかし、谷川に、「外側を写していても変化はない」と断られる。
そこで監督は、「谷川俊太郎自身」ではなく、「谷川俊太郎の言葉が入り込む隙間」を撮ることに決める。
どこにでも詩は存在しうるし、
どこからでも詩は湧きうる。
その「どこ」を切り取っていく。
『ウチ、お風呂残ってたんだけど、なくなっちゃんだよね』
福島県相馬市の女子高生は、笑いながらそう語る。
『一人の方が、よかったよ』
青森でイタコを続けるおばあちゃんは、諦めたようにそう語る。
『眠れない夜は、この通りを歩いてくんだ。人間がいっぱいいるから。寂しくないから』
大阪の釜ヶ崎に暮らす日雇労働者は、楽しそうにそう語る。
『土が生きてるって感覚ですよね。モノだと思っている感覚はないんです』
東京で有機農業を続ける親子は、凛々しくそう語る。
『大当たりやったとですよ。母ちゃんに当たってから、宝くじにも当たらないけど、母ちゃんだけは大当たりやったとです』
長崎県の諫早湾で漁師を続ける夫婦は、嬉しそうにそう語る。
不思議な印象の映画だ。
素材を放り出したまま並べているような不安定ささえ感じさせる。
『詩はあなたの中にもある
けれど見つけるのは難しい
なぜならその詩はまだ生まれていないのだから』