鰹よろし

スポットライト 世紀のスクープの鰹よろしのネタバレレビュー・内容・結末

3.7

このレビューはネタバレを含みます

 おもしろくない。おもしろおかしくすることは十分にできたはずだ。エンタメ性を高めると言い換えた方がいいかもしれない。しかしそうは敢えてしなかったんだ。

 事件に対する教会の姿勢と新聞社の姿勢が同じだったという体で話は進行していく。謎解きや情報のつながりにおける真相究明におもしろさを割かないのはこれのためもあるだろう。真相を明らかにいていく者たちとして、彼らを正義として描いてはだめなんだ。

 安直に彼らを正義としないための楔も打たれてはいた。記事を考えるにあたり、それぞれのネタに関して強弱を議論していた。そして取り上げ方、コラムに続報?・・・等々。

 そもそも彼らはこれをなぜ記事にしようとしたのか。スクープのためである。しかも独占の。数字を気にしたのである。ここにインターネット社会の新聞社という位置づけを持ってきたのもさすがであろう。あとこれに対しての記者たちのメモを取る姿なのよね。ひたすらに足で取材なのよね。

 そして村社会であるということ。正義か悪かではなく、多数派少数派によって勝負が決まる。被害者は多数いたわけだが、マイノリティに押し込められていたわけだ。事件が闇に葬られてきた過程もうまく演出されていた。

 被害者からの手紙もあったが、何十年も神父の体たらくを教会が黙殺。示談にてうやむやに。裏取引だから裁判所にも記録として残らない。あるものは封印されているとか。

 なぜ今まで黙っていたと言う新聞社に対して、SNAPなる組織の人間は、5年前に資料は全て送ったと。そんときに無視したのはあんたらだろと。そして情報は全て新聞社に揃っていたことも明かされる。その事実をただ繋げられなかっただけ。繋げようとしなかっただけ。

 そこからの違いがスポットライトというところに掛かってくる。過去にやらなかったからそのままで良いというわけではない。今知ってしまった。知らせなければならない。だからこそ今からでもやるんでしょと。やらなきゃいけないんでしょと。過ちを認め、彼らは意志を貫く。

 ここが教会側と新聞社との決定的な違いである。この演出は見事であった。鳴りやまない電話にはついつい涙が出た。


 局長が言う。我々は常に闇の中を手探りで歩いていると。光が当てられることで真実に気付くと。


 スポットライトが当てられることで真実に気付くのか、真実に気付かせるためにスポットライトを当てるのか。

 スポットライトが当てられなければ気付かない者たちがいる。当てられていたとしてもそれが小さかったら立ち向かえない。SNAPなる組織と新聞社との比較が良い例だろう。注目度が違うんだ。それを掻い潜って悪事を働く者、うやむやに(隠蔽)する者がいる。そのために声を上げられない者、上げたとしても届かなかった者がいる。

 ここの難しさよ、バランスよ・・・

 ジャーナリズムってのは安っすい言葉かもしれないけれど重要なんだ。
鰹よろし

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