イホウジン

スポットライト 世紀のスクープのイホウジンのレビュー・感想・評価

3.9
真実に力をもたらすのは「ソトからの目」と「チームワーク」

まず最初に言及しなければならないのは、今作におけるカトリック教会の事件の酷さだ。自分たちの神への近さという優越を口実に無実の人間に辱めを強いる行為は、断じて許されるものではない。確かに今作で言及されるように背景には牧師の独身制という固有の規則があるのかもしれないが、それは決して犯罪を組織的に見過ごす理由にはならないはずだ。映画内でも指摘されるように、信仰の対象はキリスト教であり教会ではない。教会の罪を指摘することがキリスト教への反逆には繋がらないということに目を向ける必要があるだろう。(ここまで書くと昨今の日本のハラスメント案件も大体この構造に行き着くことが分かる。この映画で描かれた事件は遠い対岸の話ではないのかもしれない)

話を映画の内容に戻そう。
今作を観ると、一連のスキャンダルが2002年に暴かれたということに必然性が伴っていることが分かる。過去に何度も報じるチャンスがあったのになぜしなかったのか、そしてなぜあの時大々的に報道できたのか?これについて考えることは、ジャーナリズムが社会に効力を持つには何をすべきか私たちが検討するヒントにもなり得る。
まず今作の追及の導入となったのは、新編集長を筆頭とする「ソトからの目」だ。内輪のコミュニティに属してない存在だからこそ客観的な視点で対象を分析できるということは、よく見受けられる話だ。当然そこにはローカルルールが適用されず、時として自分たちの属する集団そのものを敵に回すことがある。それでもなお追及を止めないのは、その“悪”を倒すことが集団全体の自由や公正の向上に繋がることを信じているからだろう。確かに今作で取り上げられる事件は、公になれば人々のアイデンティティさえも崩しかねない危うい話題である。しかしそれを理由に取材をやめてしまえば、いつまでもソトの人間はそのコミュニティを受け入れることが出来ないし、ウチの人間はいつまでも被害者になるリスクを背負い続けなければならなくなる。日本はどうしてもウチの単一な社会で考えにくいが、この“ソト”からの視線は常に大切にしなければならない。
そしてこの映画の主軸でありジャーナリズムの真髄として語られるのが記者たちの「チームワーク」だ。今作を観れば分かるように、あれだけの巨大な悪を1人で暴こうという話はさすがに無理がある。そもそも時間的に体力的に限界だろうし、1人で取材を進めると否が応でもその記者の主観が記事の方向性を定めてしまう。この映画で悪の打倒が達成された背景に、仕事を複数人で分散し頻繁に情報共有のディスカッションを行っていたチームワークがあるのは間違いない。一緒に悩んで一緒に悲しんで一緒に闘うことで、もはやそのチームは1つの巨大な自我を持ったような塊として悪に挑み始める。このエネルギーに今作の悪は打ち負かされたのだろう。

全体にドキュメンタル調の映画でその圧倒的な情報量は面白かったが、劇的な面白さがあったかどうかと問われると少し考えさせられる。盛り上がりそうなフラグが立ちながら結局ズルズルと次の話題に進むということが多々あり、若干の情報過多に陥った。あとアメリカのカトリックの構造や司法の手続きの話など、アメリカ社会に対する一定のリテラシーがないと今作にうまく入り込めないというのも少し残念である。
また今作における女性記者にどことなく“ケア”の役割が当てられていたことにも少し違和感を覚える。実際の女性記者がそういう性格だったら別に問題はないのだが、他の男性記者の無愛想さやワンマンさをフォローする役割に回っているように見えたのは残念だった。

改めて今の日本社会を見つめると、チームワークでスキャンダルを暴いた記者たちという話はほとんど聞かない。代わりに頻繁に取り上げられるのは東京新聞の望月記者だ。報道の自由が失われつつある昨今、確かに望月さんのラディカルな姿勢は本来記者があるべき姿を見せてくれているように思える。しかし、普通に考えて「1人の記者が巨大な権力に立ち向かう」というストーリーはいささか出来すぎではないだろうか?1人の力で本当にジャーナリズムは真価を発揮できるのだろうか?
また、19年の映画「新聞記者」が今作の事実上の日本版リメイクではないか?とも感じた。いろいろ似てる。

個人的には今作で重要な役割を演じるツンデレ弁護士のキャラクターが好きだった笑
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