ArsMoriendi

心が叫びたがってるんだ。のArsMoriendiのネタバレレビュー・内容・結末

心が叫びたがってるんだ。(2015年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

 青春群像劇としてまとまっている作品だと思ったが、若干の物足りなさはあった。
 物足りなさの理由は、元々テレビアニメを得意とするスタッフによって作られた一時間半の映像であること。所々に「テレビアニメ癖」が見えて、それが全体の作りを甘くしている印象があった。
 結論を先に言うと、成瀬と坂上以外のキャラクターを全て削り、生きづらい成瀬が坂上によって救済される、超平和バスターズ版「君に届け」にすれば、もっと面白かったんじゃないかと思う。
 だがその前に、自分が鑑賞中に違和感を覚えた「テレビアニメ癖」について語りたいと思う。
 癖その1。(見るからに明らかだが)キャラクターが多いこと。
 テレビだと一クールでも四時間近くかかるため、その分の時間を埋める必要があり、そのために使われる手法がキャラクターを増やすことである。「あの花」では超平和バスターズだけでも六人のキャラクターが登場し、しかもその全員が深掘りされる所に面白みがあった。
 しかし本作は二時間の映画であり、そもそも論だが、メインの登場人物を四人置く必要があったのか、そのこと自体にまず疑問が浮かんだ。あの花だと「ぽっぽ:じんたんの肯定役」「ゆきあつ:じんたんの否定役」「つるこ:ゆきあつを動かす役」……というふうに、キャラクターを置く動機に一言で表せるようなコンセプトがあった。しかし本作において、仁藤と田崎(※ラストシーン除く)に、そもそも作中に配置する価値があったのかは疑問だった。
 田崎は一瞬、乗り気にならないクラスメイトを動かす役になってくれるのかと思ったが、その役は仁藤が請け負ってくれたし、設定やシチュエーションを少し変えれば坂上だって出来そうだった。またDTM研の眼鏡男の役割も坂上が回収できるんじゃないかと思わなくもなかった。田崎を削除するメリットは大きく、野球部の男を全員描く必要がなくなるので、その分の時間を坂上と成瀬の交流を描くことに当てることが出来た。仁藤についても同様で、仁藤の存在を枝葉に押さえれば坂上と成瀬が付き合うことが出来たし、口下手な女の子がイケメンに救われるという、わかりやすい少女漫画的なストーリーにはめ込むことが出来た。
 また作品にとって大切なこととして、ミュージカルの準備シーンを濃く描くことができた。
 このシーンは作中ではあっさり終わってしまったが、むしろこのシーンこそが、成瀬の成長にとって大事だったのではないかと思わなくもない。なぜならずっと言葉を封印して一人きりだった成瀬が、ようやく周囲に受容されるシーンこそがこのシーンだからだ。初めてクラスメイトと話す胸の高揚、言葉が話せなくても話が伝わるという安堵、自分が受け入れられているといった幸福、そういった彼女が変化するにあたっての要素をなぜ描かなかったのか。
 理由を言ってしまえば「時間がなかったから」だ。なぜ時間がなかったかというと「田崎を描くのに使ったから」だ。じゃあ田崎を描かなかったら良かったじゃん、と自分は思った。
 本作は「青春群像劇」という売り文句であるため、キャラクターを配置すること自体に意味があるんだよ、という意見もあるかもしれないが、自分はむしろ二時間の尺の中で上手く四人の人間像を描くことが出来なかったから、言い訳として「青春群像劇」という札をつけたという印象を受けた。
 もし1クールのアニメであれば、坂上も仁藤も充分に描くことが出来ただろうし、きっと魅力的な人物に見えただろう。それだけの実力を持ったスタッフ達だ。しかし今回は「1クールのアニメ向けの企画で二時間の映画を作ってしまった」感じが否めなかった。
 癖その2、脚本に「引き伸ばし癖」がある。
 アニメの脚本家自体に、話をなるべく引き伸ばすように描く癖があると思っている。例えば本作だと、病院の帰りに、仁藤が坂上に成瀬のことを聞くくだりで「坂上くんは、成瀬さんのこと……」とまで聞いておいて「好きなの?」と聞くのを一旦躊躇するシーンがある。映画の時間は二時間しかないのだから、ここでもう「好きなの?」とまで聞いてしまった方が話が先に進んだのではないかと思った。そうやって時間を削れば、坂上と成瀬の交流や、ミュージカルの準備のシーンを描くことが出来る。そういった全体的な、「限られた時間で何を描くべきか」という取捨選択が上手くいってない感じがした。
 また時間がないことと、シーンの取捨選択が上手くいっていないことの奇妙な間の子として、動きのないシーンが多かった印象がある。
 例えば、「ミュージカルの最後を変えたい」と成瀬が言い、坂上が作曲して答えるシーン。けっこう重要なシーンだと思うのだが、それ以前のシーンと同じように校内で描いているためにストーリーが扁平になっている印象がある。また、なぜ最後を変えたいと思ったのか。その心の動きも成瀬にとって大切な部分だと思うのだが、説明不足によって視聴している自分にはわからなかった。この辺りにも、時間逼迫の影響が表れているように思える。
 視聴して気になったことが、テレビ癖の他にももう一つある。それは岡田麿里の脚本である。
 あの花はなぜ面白かったのか。自分は二点に集約出来ると思っている。
 1、「技術」。次の話が気になるプロット、魅力あるキャラクター、最終的なカタルシスを私たちにもたらしてくれたのは、(岡田麿里も含む)アニメスタッフの手腕である。
 2、「ポップさ」。引きこもりの青年にボディタッチの多い美少女が押しかけてきて、おまけに美少女が昔死んでいるというのはわかりやすい魅力がある。
 岡田麿里の脚本にはリアリティがあるとか、エモーショナルな部分が魅力的だとか言われているし、そしてその才能は「あの花」でも遺憾なく発揮されていたわけだが、正直なところその辺りは魅力の枝葉に過ぎなかったのではないかと自分は思っている。
 僕があの花を好きになった理由はリアリティとエモーションだ。だからそういった部分がなかった場合に、僕自身が「あの花」を好きになれたかはわからないが、興行的な成功だとか作品としての質の高さは変わらなかったんじゃないかと思う。つまり岡田麿里の成功は純粋に「技術」によって支えられていて「作家性」は枝葉だと思う。
 あの花のインタビューで岡田麿里は、じんたんのキャラクター造形に引きこもりの経験を生かしたと答えているが、しかし実際のところ僕はその経験が大きく生きているとは思えない。人の目が怖いとか上手く話せないとか、そういったことって所詮ググれば出てくる範囲だからだ。
 もしも岡田麿里が小説家であれば「経験が生きる」というのはありえることだと思う。じんたんの内面を語る時間が長くなる分、付け焼き刃では上手くいかない。しかし脚本の限られた範囲で、本当に経験が生きることってあるんだろうか。
 岡田麿里の脚本を否定しているわけじゃない。僕が言いたいのは、めんまやゆきあつだって充分に上手く描けているのに、じんたんだけを特別視する必要があるのか、ということだ。
 で、ここさけの話に帰ってくるのだが、僕は岡田麿里が主人公の成瀬を特別視しすぎているんじゃないかと思った。じんたんと違って女性である分、彼女の体験がダイレクトに詰まっている感じがする。しかし他人の事を上手く語れる人間が、自分の事を上手く話せなかったりするように、作り物を語る時ほど丁寧じゃないと思った。ストレートに言って説明不足だと思った。
 成瀬が上手く話せないということが、僕には「なんとなく」わかる。しかしそれ以上はわからない。言葉によって失敗したことと、言葉が話せなくなったことが、実はストレートに繋がってないからだ。そしてそこを繋げるために卵の王子というファンタジー要素を用いている。こんなものを使っている時点で、自分の説明が充分でないことが半分わかっているのだ。そうじゃなく、僕はあの花のように丁寧で客観的な技術によって作り上げられた成瀬が見たかったし、彼女の心の痛みに共感してみたかった。
 ……と、ここまで書いておいてなんだが、実は成瀬の内面を描くことは、この作品にとってそれほど大切なことではないんじゃないかとも思っている。卵の王子もいていい。というのは少女漫画やライトノベルの主人公であれば、「内面は正直よくわからないけどなんとなく社会的に不全である」というパターンがよくあるからで、成瀬の痛みが「わかる人にだけわかる」ものであっても、そういうパターンであれば問題ないと思ったのだ。
 作品としての質を下げろと言っているわけじゃない。尺が二時間しかないのだから、諦める所は諦めていいんじゃないかと言っているのだ。
 だからそういう意味でも、自分は成瀬を主人公に、坂上くんをヒーローにした「君に届け」のような少女漫画的ストーリーに再構成した方が良かったんじゃないかと思った。すると上述の様々な問題が解決する。また、かつて引きこもりだった岡田麿里が自分の分身をどう救済することを望むのか、個人的にもすごく興味がある。
 もちろん今のままでもまあまあ面白いんですよ。でも成瀬ちゃん可愛いから救われて欲しいじゃん、と思ってしまったのが本音だ。
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