かまってちゃん×厨二病=作家性?
様々な作品で、物理的にも感情的にも剥き出しにして、ブチまけてきた園子温監督。
今作はタイトル詐欺はいっさいない”本当に”ひそひそと話す数人のキャストと安っぽいがゆえに”剥き出し”を見ることができるSF描写。
最も静寂であり、最も攻撃的。
ひそひそと話すキャスト陣に対して、こちら側が聞き入らなければならないという思考的な強制力の働きと、普遍的な”人の想い”を宇宙宅配便に託すというのは、常人では困難な領域であろう。せいぜいハンバーガーショップが限界値。
そして飛び道具的に画面映えする震災後の福島。
誰もいない街
陸地に打ち上げられ行き場を失った漁船
そして、浜辺のタバコ屋シーンは圧巻としかいいようがない。目に映る堤防や波、砂に塗れたモノたち、そこにいる”残留思念”
そう、残留思念、残留思念、残留思念…
人の想いが朽ちないことを祈りのように捧げた詩的な描写が終盤に向けて注がれる水のようにかさを増していく。
決して万人には受けない映像詩。
剥き出しになった”想い”が、宇宙に向けて、どこか遠くの惑星に向けて発信され、それを受信してくれる”誰か”に向けた映画だと感じた。
作家性とは、面倒なモノであって欲しいと思う。常にかまってちゃん的に発信をするも厨二病心が邪魔をして、自身の崇高さを知らしめたいがゆえに万人に通じず孤立化し、そこで溜まり次第に剥き出し化していくところに産まれるモノに期待を寄せてしまうのが、我々なのではないのだろうか?とひそかに思う。