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合葬のotomisanのレビュー・感想・評価

合葬(2015年製作の映画)
4.2
 二百年以上続いた統治が急に終わり禄を失って旗本御家人たちもただの武家。さらに部屋住みの次三男らにお目見え前の若輩どもはほんとの穀潰しに。どうせ目通り叶わぬ主君なら臣も君もありはすまいと思ったら、そんなもんじゃないのが武家の世界。江戸は戦火を免れてめでたかろうが、兵火に曝しても孤塁を守りたいのが幕臣の面目か。
 そして囚われるのが、慶喜水戸退去のお見送りで覚えた「君辱めらるれば臣死す」の感覚だ。薩長兵が市中を大手を振って行き来する一方で大君が蟄居謹慎し身だしなみの整えも憚る有様を目の当たりにすればこそ覚えるところである。次三男の彼らが普通なら主君に目通る事はあり得ない。それが将に主君の辱めの現場において最初で最後の一座を建立してしまったわけである。しかも主君は彼らの存在に気を廻す余地も有るまじき退去の後ろ姿ばかりの。
 アトラクター満載な柳楽が"臣死す病"に罹り彰義隊を志願すれば、連れ戻したい開明君も宿無しのノンポリ君もなんとなく引きずられる。しかしだ。スローガンはなるほどと思うが上野戦争まで一月、どれだけ遊ぶか、愛し恋するか。だがここがこの話の肝でもあり、彰義隊ものを期待した観客の不満が集まるところなのでもあろう。
 上野を根城に軍事的見通しも軍略も新式装備も無い割に軍資金ばかりたんまりあって、教練も統率も皆無の若者を抱えて隊に何ができる?精々命の洗濯を繰り返し、情が募って出てくもよし、それでも思いが曲がらねば残るもよしだったろう。残った者には散り際だけ言い聞かせて死なせてやるのが功徳であったかもしれない。だから、森のごとき死に花論など無用の世話だし、無為の死を嘆くなど論外であろう。山に残ろうという者ら、来るべき時代が論じられて既に数十年という時代に取り残されて碌々としている連中に何の益あって延命の無駄を説くのか。薩長軍に、軍記記述者に潔く死にましたと書かれればいいだけのはなしである。
 だが、そうはいっても死の現場は凄惨だし生き残る者だってなんの楽な事があろう。生き抜く積りのはずだった開明君を先頭に、"死す病"の雪辱君の死にきれぬ苦しみの今わの際も、そこに慈悲を与えられぬノンポリ君の無能さも、済んでしまえば成すところは無くとも生き方それぞれを示し得たとは感じる。
 写真場ではピストルを手に大盛り上がりの三人が、その飛び道具に打ち払われて一人残ったノンポリ君が受け取る二人の遺影。いつかオゼキ夫人のもとに届く事があるだろうか。そして、夫人は雪辱君の姿をその子に何と説明するだろうか。ノンポリ君にオゼキ夫妻、生きて各人どんな将来が巡って来るか分からぬけれど、そのことだけが目に見えるようだと思った。
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