かおりん

母と暮せばのかおりんのレビュー・感想・評価

母と暮せば(2015年製作の映画)
-
わたしには、ハタチの息子がいます。
「息子が原爆で死んだ」
もう、そのテーマだけで、心の中のいちばん奥の奥をぎゅーーーーっと鷲掴みにされてしまって、理屈抜きで涙が止まりませんでした。


ちょっとネタバレ気味になるかもしれません。


朝から、母親お手製のお弁当を鞄に押し込みながら「母さん!母さん!」と賑やかに話しかけ、いつも通りの明るい笑顔で家を出て行った息子。
それが、ほんの一瞬で、もう二度と戻らぬ人になってしまうんです。
ガラスをも一瞬で溶かすほどの熱に焼かれ、骨のひとかけら、ズボンの端のひと切れも残さずに。

理不尽ですよねえ。
納得なんてできませんよねえ。

この無念を、この不条理を、どこにぶつけるでもなく声高に叫ぶわけでもなく、静かに、ただ静かに自分の中に抱えて生きてきたお母さん。
あの当時、日本の至る所に、同じような思いを抱えたお母さんたちがいたんだろうなあ、、、と、思いを馳せずにはいられませんでした。

いっぽう、将来を誓った人を亡くしてしまった若い娘、町子。
亡くなった恋人への思慕と、生き残ってしまったことへの自責の念に駆られています。
彼女のような境遇の女性もまた、当時はごくごくありふれた存在だったことでしょう。
死ぬことは悲しいけれど、生き残って尚、ひときわ悲しい思いを味わうなんて、、、戦場は日常の中にこそあったのかもしれません。

そして、亡くなって3年経って、ひょっこり幽霊となって現れた息子、浩二。
生きていた頃と同じように、よく話し、よく笑うんですよね。
母親と交わされる、まるで普通の軽妙なやり取りもほんとうに楽しそうで。
でも、いつも、結局はどうしようもない悲しみを抱えてる。
(ちなみに二宮くんの、捨てられた仔犬みたいな哀しいまなざしが、この役にとっても似合ってるなと思いました。)


映画は終始、この3人の、魂の救済がテーマだったのかな、、、と感じています。
長崎という、たくさんの十字架に見守られた街が舞台になっていることも、そう思わせた一因かもしれません。
最愛の人を残し自分の死を受け入れる人、最愛の人を忘れないでいる人、最愛の人を忘れなければならない人。
この先の長い時間を生きていくためには(浩二は生きてないけど)、三者三様に乗り越えなければいけない一線があるんですね。

浩二なのか、お母さんなのか、町子なのか。
見る人によって誰に心を寄せるかは違ってくるんでしょうけれど、いずれにしても「もし自分だったら」と思うと、心が張り裂けるような気持ちになります。


さて、3人を翻弄する「死」なのですが。
死に分かれるということは、なにも戦争でなくてもいくらでもあることです。
病気だってある、事故だってある。
この映画の中でも、浩二がさらっと「(死ぬのは)運命だった」と言うシーンがあります。

しかし、お母さんは、きっぱりと否定するんですね。
そうじゃない、津波や地震とは違う、原爆は人が起こしたものだ、と(←ニュアンス)
吉永小百合さんの、静かだけれど力強い口調で、これは人が起こしたものだから避けることもできたんだ、と。
あのくだりで、これはやっぱり反戦映画なんだと思いました。
とても静かな、けれどとても強いメッセージをもった反戦映画。

日本は世界でたったひとつだけの、被爆国です。
それは当時、極東の果てにある、軍国主義に凝り固まった小国と思われていたのかもしれない。
原爆投下は当然の成り行きだったと言われるのかもしれない。

けれど、知って欲しい。
あの日雲の晴れ間の下に広がった長崎の町では、戦時下にあっても学問に精を出し、豊かな心で人を愛し、折に触れ祈りを捧げ、、、そんなありふれているけれど人間らしい営みが行われていたということを。

この映画が、少しでもたくさんの国で、たくさんの人に見てもらえたらいいなと思います。



さてさて、余談いくつか。

浩二と町子の淡いラブシーンを見て、久我美子さんと岡田英次さんの「また逢う日まで」を思い出しました。
ほんっとに大昔の映画なんですけど、ご存知ですか?
やっぱり戦時下の恋人たちを描いた物語なんですが、ガラス越しのキスというすごく美しいシーンがあるんです。
こちらも戦争を考えさせられる映画です。

そして、唐突に幽霊が現れるシーンでは、これまた大昔に見た井上ひさしさんの舞台「頭痛肩こり樋口一葉」がひょっこりと浮かんできました。
あの舞台で、樋口夏子にだけなぜ幽霊が見えるか、、、ってことを思い出し、ああそういうことか!と。
この映画の結末も、だからわりと納得しています。
あれでよかったんだと思います、はい。
(ラストの大合唱についてはこれから考えてみる・笑)
かおりん

かおりん