むっしゅたいやき

ナタリー・グランジェ(女の館)のむっしゅたいやきのレビュー・感想・評価

3.8
マルグリット・デュラス。
白状するが、未だ本作に就いては捉え切れて居ない為、フォロワーの方々には本稿は読み飛ばして頂きたい。
海外盤の鑑賞で、台詞は全て理解した積もりであったが、慣れ故に何か読み飛ばしたか、誤訳してしまったやも知れぬ。

主演はモノクロの画面に一際ブルネットが映えるルチア・ボゼーと、煙草を吸う仕草が似合うジャンヌ・モロー。
デュラス特有の、開放的で有りながらも鑑賞者へ訴え掛ける、画・音の空虚さ。
切り返しと長回し、鏡や水面の反射を使った画面構成、フレームインフレームのショットの多用は、カメラのギラン・クロケ演出。

二人の女性と子供二人が暮らすその館は、彼女等で完結した内的世界と外界とを隔てはするが、其の実、外からの接触を阻みはしない。
画面外からの不意のピアノの断片(ナタリーの暴力性のモチーフか)、けたたましい電話の音、ピアノ教師、そしてジェラール・ドパルデュー演ずるセールスマンにより、空虚乍らも安定した世界は、勝手に“踏み込まれ”、“崩壊する”。

此の作品では、家の外─外界─は、徹底的に冷淡で、不穏な社会として描かれる。
ラジオ音声は殺人を犯した少年二人が警官隊に追われる様を報じ、セールスマンが資本主義の歯車としてその心身を磨り減らす合理的で無機質な、極めて男性的な社会であり、本作内に於いて“情”と云った物は一切見受けられない。

扨、ここ迄紐解き、且つタイトルも然うだからと云って本作を、「女性(静的な家)への男性(社会)からの侵入・介入」とフェミニスト様に位置付けるのは早計であろう。
デュラス自身は、例の如く何も明示してはおらず、又劇内でもナタリーの暴力性と云った問題も描かれており、一筋縄な理解は為難い。
敷衍すると、「内向きな“(ナタリー=暴力性をも其の人格の一片として含めた)個人”に対する“社会”からの要求・要請」がテーマの様にも見受けられる。
其の場合、本作は「個人の内的世界を、現実世界にまで拡張した劇」となるのであろう。

“何故この館は、家の裡、内向きの中庭には開放的で、外向きには堅牢であるのか”。
─社会内での“個人”又は“女性”の暗喩?

“最後の犬の踵の返しは、何を意味するのか”。
─?

“寄宿舎行きの取り止めの理由は”。
─内的世界の保守=女性性の保守。

矢張り、デュラスは難しい。
頭で理解するのでは無く、情感で理解すべき作品であるのかも知れない。
只、ドパルデューのセールストークと其のオチには、正直笑わせて貰った。
評価は暫定、としておく。
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