古川智教

エイリアン:コヴェナントの古川智教のレビュー・感想・評価

エイリアン:コヴェナント(2017年製作の映画)
5.0
シナリオの杜撰さを指摘されているが、むしろそうした杜撰さはエイリアンの餌食になるべきものとして必要なものである。この杜撰さはマイケル・ファスベンダー演じるデヴィッドが目論む創造(アンドロイドである自身が人類から創造されたものである以上、自身もまた別のものを創造しなければならないという強迫)の杜撰さとシンクロしているのだ。デヴィッドの創造の杜撰さとはもちろん、何も創造できていないに等しい創造の剽窃である点だ。エイリアンはデヴィッドによって創造されたものではなく、既製品として持ち込まれたものに過ぎない。それから、バイロンの詩とシェリーの詩との取り違え、愛していたエリザベスをエイリアンの母体として供したこと、ウォルターの従順性をキャサリン・ウォーターストン演じるダニエルズへの愛だと主張すること、そしてそこに自らのエリザベスへの愛を重ね合わせること、すべてがちぐはぐであり、それゆえデヴィッドは人間的、あまりに人間的な振る舞いをしているように見える。(だからこそ当初は兄弟と呼んでいたウォルターを殺害しようとするわけだ。)デヴィッドが行っているのは、まさしく人間の創造行為である。そして、デヴィッドの放つエイリアンとは死の欲動であり、あらゆるものを食い潰していくフィクショナルなものだと考えればどうなるか。エイリアン=死の欲動としてのフィクショナルなものの餌食こそが、シナリオの、デヴィッドの、人類の杜撰さなのだ。では、何のためにそう仕向けられるのか?創造のためにである。デヴィッドが誕生したときの、芸術に取り囲まれていた光景を思い起こそう。芸術に取り囲まれて、物語は始まっているのだ。芸術とは何か。芸術とはまさに死の欲動としてのフィクショナルなものが、現実のフィクショナルなものである、法、宗教、経済、社会、愛に対して、覆い被さったり(顔面に張り付く幼生のエイリアン)、内側から食い破ったり(胸を突き破る子どものエイリアン)、または背後から襲い掛かったり(人間の頭を舌で吹き飛ばす成体のエイリアン)して、フィクショナルなものを書き換えていく試みである。ゆえにデヴィッドが為そうとした創造とは別の生命体を作り出すことではない。芸術における創造なのだ。その創造には餌食となるべき母体(現実のフィクショナルなもの=人類)がどうしても必要である。それに杜撰である方が食べやすいに決まっている。そして、注意しよう。芸術の創造には暴力が伴っているということに。善意であると思い込んでいる芸術(テラフォーミングによって湖畔に小屋を建てること)は、植民地化という欺瞞に満ちた暴力を通じて、悪意の芸術(エイリアン=死の欲動)に転じ、且つその暴力に背後から襲い掛かられて餌食とされるのだということに。警鐘を鳴らしているのだろうか。もちろん。人間の胚芽にエイリアンの胚芽を紛れ込ませているのだから。
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