このレビューはネタバレを含みます
原作ではリス・ゴーティの「巴里祭」のレコードに合わせて歌っていたはずだが、本作で息子の妻・菊子を演じる原節子が土砂降りの雨の中かけていたのは、リストの「ラ・カンパネラ」である。リスゴーティの曲も、同名の仏映画も僕にとっては特別な思い入れのある作品だったので、この翻案は至極残念であるある。
しかし、原節子の夫役・上原謙と「巴里祭」を日本語でカバーしたディック・ミネには、奇妙な因縁が存在する。2人は同時期に立教大学交響楽団に所属していたばかりでなく、互いにプレイ・ボーイとしても名を馳せていた。浮気男の上原謙を前にして、モーリス・ジョベールが作曲した甘美なワルツを流す行為は、いくら当て付けだと非難されようが、遂行して然るべきだったのではないか。
作品内に幾度も表出する記号(🌻や🦐)に対し、山村聰は述懐ではなく、外面的な身振りのみによって反応する。特に、彼が異様な反応を示すのが、亡き友人の遺品の慈童の面に対してだ。原作ではこの場面において、永遠の少年を象徴する能面、菊子、妻の姉との関連性を探し求めることが考えられる。しかし、本作ではそのような小細工は一切必要ない。ただ、その表情がもたらす美しさに心酔するだけだ。与謝野晶子が詠んだ「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」という句を思い起こせば、この点について論じる余地はない。
ラストシーンは出色の出来栄えである。
それは『第三の男』を彷彿ともさせる、新宿御苑の並木道を父と義娘が並んで歩く光景だ。これまで2人が歩いていた場所は、鎌倉の自宅の前にある通りだけである。その背景には建仁寺垣や生垣が聳え立っており、ガルシア=マルケスが『百年の孤独』の中で「長い歳月を経て銃殺隊の前に立つはめになったとき」というフレーズを反復したような、あるいは『皇帝マクシリミアンの処刑』の後景にエドゥアール・マネが配置した大きな"壁"の存在によって暴力的に閉じられた空間の・ようなものが繰り返し登場する。
一方、この場面では、離婚を決意した原節子が「ヴィスタ(見通し線)」という言葉を口にし、奥行きのある空間を歩いていく2人をロングショットで捉えることで、哀愁と希望が混淆した余韻を感じさせる見事な演出がなされている。
山の音は響かず。