せいか

アリスのままでのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

アリスのままで(2014年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

12/19、GEOにてDVDレンタルをして視聴。字幕版。

若年性の家族性(要は遺伝性)アルツハイマーを50歳の誕生日を節目にして異常をじわじわと自覚することになり、それからはどんどんその脅威に侵されていく女性の話。言語学者であり、いかにも人生円満方向の家族もいて、社会的には成功したインテリであった彼女の焦燥感が画面から伝わってくる話だった。自分のよすがだからと大学にできるだけ長くいたいと願ったところで、知識の学府はその知識が脅かされているなら人間を切り捨てる(しか選択できない)という皮肉もあり。
彼女自身、身内も含めてキャリア思考に囚われていたり、優秀さや成功を重視する人柄だったのが、自身の発症によってその土台である言語学者というものさえもが崩れていく皮肉的状況の中でその今まで強固なものと信じていたはずのもろもろを我がものとできなくなっていくという恐怖と、強制的人生の見つめ直せない見つめ直しが描かれる。救いがあるのはそのこれまで築いてきたもの(つまり家族というところにまとまってしまうのだなあ……)がこうなった彼女に残っていて応えてくれることなので、人間の道程は大事なんだなあとぼくは大の字になりましたというか。最終的にこの物語は愛の話なのじゃよというきれいなところで終わらせてもいる(のだろうたぶん?)。
教育レベルが高いほど違和感が出てもカバーしてしまうので、結果、治療が遅れてしまうとか、なるほどなあであった。

というか、個人的に私も記憶や思考能力に関するものが脅かされること(と視力喪失)を一番恐れているので、震えながら観ていた。
自分の状態に怯え、そこから逃げ出したい気持ちを堪えて夫に自分の状態を打ち明けた彼女が、話をはぐらかそうとする彼に対し、今この瞬間も自分の脳細胞が死滅していってる感じがする。今まで自分が積み上げてきたものが消えていくのが怖いって言い返すのが、ほんまそれが怖いんだよなあと思った。知識が消えていく、抜け落ちるって自分の道程が崩れてく恐怖があるもの。私自身は鳥頭なのでむかしからそもそも頭がお粗末だけれども、とはいえそこは日々思ってることなので、やはり震えて観ていた。年々明らかに頭の中の引き出しの具合も悪くなってるのも自覚してるので本当に怖い。

さらに私ごとを重ねて書いておくと、アルツハイマーではないけれど脳味噌なり神経なりが原因となる遺伝性のものを私もほぼ確で発症する運命背負ってたりするのやら(しかもいくつか抱えてるドン!)、それに遠からず関連することだったりそうでもないことで幼い時分から肉体的に終わってたのやらがあったり、その遺伝性のものをそれを知ってた片方の親が私がそうやって幼少期から謎の弱さでバッタバッタ倒れてたのにそのことについて何も言わないで道を閉ざさせたのとかを思い出して(しかもそういう状態であることを今に至っても直接知らされていないという)、フフフと暗い気持ちになっていた。それとは別かもしれないが、これもまた若い時分から極度の頭痛持ちでなんだか頭の中がシュワシュワ溶けてく感じに悩まされている身としても本作は怯えポイント高かったのだけれど。
ともかく、主人公は自分が50歳で発症するまでそもそもこの遺伝性の病の存在を全く認識もすることもなく過ごしていて、でも人生は周り、彼女の周囲には子がいる。自分が媒介となって引き継がせなくてもよいものを引き継がせてしまっていたという恐怖はいかほどのものだろうか。知りながら伏せて臭いものには蓋をしてそれでいながら教えないことこそ美徳だと錯覚しくさり、自分の面子のために何人も産ませ続けた私の親にも感じてほしいものである。つい恨み言も出るわね……! すぐに家族にその自分だけが問題ではない脅威の存在を伝えたのは誠実なことだよなあと、心底からしみじみそう思った。子供たちにとっては母親が突然病原菌を抱えたまま自分たちを産んだ異物にもなるけれど、しかしどうしようもないということも(既に自立した大人なのでなおさら)無理にでも飲み込まないといけないという苦しみ。癌なら良かった。それならみんなでピンクリボンを付けて過ごせるみたいなセリフもグサグサくる。脳細胞が死滅していくのと肉体のどこぞ細胞がエラーを起こしてしかも蔓延していくのとでも(遺伝性か否かにかかわらず)周囲の環境も含めて違うものはある。

自分の存在が家族の内部まで犯す悪性があったことの認知と同時にその病に自身も苦しまされる主人公が、アルツハイマーだと知ってから周囲に何度も「so sorry」など謝罪の言葉を使うのが切ない。

老人養護施設の見学をして、まさかアリスが自分のために見学に来ているとは露とも思わないスタッフの案内の中で彼女は誰も面会に来ない老人たちを眺め、そこにいるのが殆ど女性たちであることを気にする。そこに自分を重ねているのである。この見学のシーンの後から彼女は自殺の準備を整え、用意した質問に答えられない日がきたらそれを果たすようにというビデオメッセージを残す。つらい。(また、老人ホームでのアイデアを受けてか、以降、手首に自分が記憶障害であることを記したブレスレットを付けている。)
自分が自分でなくなることの恐怖を緩やかにではなく突発的に突きつけられ、しかもそれは夥しく周囲に影響を与えもするものであるって、そりゃ抱えるのは難しいものな。この判断を日々の軋轢の結果、果てとして来るかもしれない、本来ならもっと先にあったはずかもしれない老人ホームを見学するということによって導くという、主人公本人も老人たちも何もかも誰も救われないもとでの結論なのだ。
しかもこの自殺のための質問ルーティンすら携帯をなくしたのもあって忘れ、たまたまビデオメッセージを発見することでただ薬を飲むという言葉に従うように(しかもそれも何度もビデオを見返さないと薬を発見できない)行おうとしたりする。

自分の家のトイレすら分からなくなって失禁したり、周囲の戸惑いにしても考えてみるほどに絶望的だ。しかも、自分はもう駄目になるというのを脅すように楯にされるのだから、そういう意味でもある種、老人のそれとも具合が異なってくるのだろう。
最初は単なる物忘れに近かったのが、話に出てくるものの主語がつかめなくなったり、迂遠なものになると発言意図が汲めなくなったりしてボケていくというのがまた痴呆の表現としてやけにリアルさを感じる。
主人公の介護にしても、この先の生活資金の問題もあって夫は結局キャリアを優先して遠方に行かなければいけないし、主人公は環境が変わるのを嫌がるし、そもそもそれがろくに認識できないから結局そのまま家にいることになって、代わりにケア人材として矢面に立つのが子供たちの中でも一番土台が出来ていなかった娘になるというのも、たぶん、世の中によくある光景の一つなのだ。彼女は離れた場所の劇団に所属していたのを辞めて表向き自主的に自宅に戻ってきたのだけれど、やるせなさが観ていてつらい。そもそも作中で主人公はひたすら彼女に要は「ちゃんとした人生を歩め、私を安心させろ」と言い聞かせていて、その帰結がこれという。そしていよいよだいぶ耄碌している主人公にその娘は付き添って、読み聞かせた話もこの母親はもはやよくわからずにただ「愛の話だった」と答えるところで話は終わって、(そしてたぶん、その返答にまだ頑張れるのだという希望を見出しつつも)以降のことは語ることはしない。

また、最初はいかにも知的で身ぎれいな中年女性だったのが次第にじわじわと見た目に無頓着になっていって着替えも手伝ってもらっていたりとか、ここもある種の生々しさがある。こうして見た目にもアリスではなくなっていくのだ。(ただ、あからさまにボサボサなシーンも作ってるとはいえ、最後まで化粧してたりもするのだけど)

その人の存在がどこまでその人だと言えるのか。本作は一応、その人はその人のまま永遠なるものもあるはずだし、過去からつながっているんだ、今一瞬が大事なんだみたいなところで終わらせてはいるけれど、ぼんやりとした「せやろか?」の反復もある。
家族の支えとかなんだとかにまとめてるけど、双方ともにそれらの絆が呪いにもなっていて、けして見た目には表現されてる意味の綺麗さをそのまま意図していないと思う。
彼女が自分の病とたまたま邪魔が入ったついでに自殺しようとしたことも忘れたから死ななかったというのも、「アリスのままで」意思を尊重するならば、「死ねなかった」ということになるのではないかという描写であり、なんだか考えてるだけで呼吸が重苦しくなってくる余韻がある。
作中、最終的にケアを請け負う娘が不在のまま、残る家族で主人公のケアを暗に押し付け合うような言い争いをする中、まどろみから目覚めたボサボサの彼女が、「ここは暑いわね」と呟くのも、無意識の彼女の本心の叫び、息のしづらさの描写だと思う。そしてその揺蕩う精神を語るものでもあるのだろう。
合間合間に挟まれる家の裏手の海の景色の美しさと、そこで重なる過去の美しい思い出の映像たちのきらめきは、主人公かアリスという名前なのもあって、『不思議の国のアリス』序文にキャロルが寄せた「All in the golden afternoon」の詩(これは夏の午後を謳うものなのだ)の抱える微睡みを思い出しもするし、波の描写はウルフの『波』の寄せては返す言葉の描写を(皮肉に)彷彿とさせる。

なんだかまとめとしては人間の儚さと遠く輝く美しいものによりかかる弱々しい命を思う作品だったなあと思う。そしてたぶんそれが永遠なるものなのだ。
still aliceというタイトルも重たさがある。アリスのままである、依然としてアリスである、未だにアリスである。アリスのままでいたいし、いたかったはずだし、でもそれも分からない。それは自分にとっても周囲にとっても美しいものではなくて、枷にもなっているところがあるはずで、答えなど出せようはずもない不安を孕んでいる。

ただ制作者が何考えてるかってなると、ラストの『エンジェルス・イン・アメリカ』の引用箇所だったり、一応確認した台本のト書きの「She is still able to connect.(https://www.scripts.com/script.php?id=still_alice_608&p=50)」といい(ト書きなんであくまで目安というか普通、鑑賞者の立場で参考にするものでもないものですが)、前向きに捉えてそうな気はするんだよなあ。劇中劇で『三人姉妹』を演じさせてたのといい、「痛みを得ながらもわれわれは進んでいくのだ」という意味で描いてるのだと思う。それでも生きていくという諦めのそれではなくて、戦いながら抗いながら生きていく。それが制作者側の一応の「答えなど出せようはずもない不安」をそれでも答えるという姿勢なのだろうと思うけれど。
でも、やはりこの問題はつらいものがあるよ……。
ので、個人的には、『三人姉妹』の引用にしろ、チェーホフ作品ってそういうものだとおもってるけど、人生のつらさと死にたさを覆うための方便としてのポジティブの濫用を援用してると思っている。


物語中盤から話に出てきた、『エンジェルス・イン・アメリカ』、未読なので興味がある。80年代アメリカ、エイズ含めゲイに対する偏見が強かった時代性を踏まえた作品だという。
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