尿道流れ者

セシウムと少女の尿道流れ者のレビュー・感想・評価

セシウムと少女(2015年製作の映画)
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原発批判をこめ、一人の可憐な少女がおくる不可思議な神様達との小さな冒険をアニメーションを織り込んだサイケデリックな映像で、北原白秋の詩を前面に押し出しつつお送りするというと、大林宣彦的ノスタルジック映像経験を期待してしまうが、それは大きな誤算と言わざるおえない。

実写とアニメーションが交互することで、映画に入り込めず、ただの視聴者としての離れた距離感でしか映画に接することができない。映画と自分が一体化していくような特別な面白さには作りの問題で行き着くことはできない。
原因はアニメの方に多くあり、これには面白さもなければ、驚きもない。情報量の少ない、つまらなく長いアニメがくどくどと流されて、上映時間が何倍にも感じる。劇場で上映中に何回も携帯をみて、明るい光で視聴を邪魔した馬鹿なおっさんがいたが、今回ばかりは気持ちがわからなくもなかった。

実写の方も難ありで、非常に薄味なコメディがだらだらと続く。七人の神様が出てくるが、誰がどの神様でどんな性格かすら読み取ることができないような作りで、無意味に登場人物が多いだけにしか見えない。それではドラマもコメディも糞もない。政治批判も原発批判も場当たりで主観的にしかすぎないようなもので、神様がでるなら神的なもっとマクロな観点からのあの出来事の考察があってほしかった。

最も酷いのは原発批判をもろに表した一つのアニメで、原発に従事する社員が原発内の施設でスイッチを押して原発が爆発するシーン。確かにずさんな管理で悲劇をもたらしたかもしれないが、東電含めた人たちも原発を爆発させたかったわけではない。あの事故が意思によってもたらされたというような演出は本当に最低なものだ。それが陰謀論とかそういうものとしての映画内ならまだ分かるが、これはあまりにも行き過ぎた主観的な嫌悪感による、稚拙で稚拙で稚拙な暴力でしかない。本当に気持ちが悪い。ただ、そのおかげで、僕もあの出来事に対してもう一度丁寧に向き合うべきだと感じたことは映画の意思通りだったかもしれないが。

大林宣彦が震災後に撮ったシネマゲルニカはこんな稚拙なものではなかった。俯瞰的に人間の業と生きることの喜びを切り取っていた。二番煎じとしか言えないやり方、テーマでこんなものを作ってしまったことはとてもつまらない。サイケデリックな合成映像一つにしても、この映画のようなただの羅列ではなく、大林映画では向かう方向と目的がきっちりあって、その上で不自然極まりない異物としての映像だから心に残ったんだと思う。

観ている方は趣味として映画があるけど、撮っている方は趣味ではすまされないからね。僕には口に合わなかった。とても辛いほど。