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アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発のotomisanのレビュー・感想・評価

4.1
 日本なら他人の不幸は蜜の味でお終いか?いや、そんな一方で、いけない事と分かっていても組織の一員だから断り切れず文書改竄に関わって、それを苦に自殺してしまう人もいる。
 この実験でも、みんな誤答したペアの電撃処罰をためらい抗いするけれど、ペアが目の前にいても4割、別室で姿が見えないなら6割半は実験、最大400V処罰を完遂する。そして同時に相手の安否が気にもなる。
 どっちが本音だよという感じだが、なんせ名のある大学のれっきとした研究なんだろうし、ならば専門家の世界の事だし、そもそも自由の本国アメリカなんだから、心臓が悪いといっても同意しちまったんだろう?そもそもそこがおかしい。どこか「実験」自体のウソ臭さ、裏がありそうに感じられないでもない。と来れば被験者もお付き合いを止めない事情は充分。あるいは付き合いきった方が無難との判断が生じるのも変ではないのでは?
 なにしろ赤狩りは一段落してもスプートニク・ショックから五年、米ソの均衡維持に油断禁物の時勢、軍なのか連邦政府なのか権力の差し金?がどこに延びているか誰に分るだろう。そして慎重に対処するなら、相手のゆう事を先ずは聞く事。これに尽きるだろう。

 当時を想像すればこんな心境にもなったんじゃないか?しかし、実験後ミルグラム氏から実験の実際と真意を明かされて被験者の多くが心を一新させた事だろう。8割方がその趣旨に賛同するのも分かる気がする。ただ、肯定的な気持ちの一方で、おそらく同等の自発的に実験を止められないかった事への苦い思いと約2割の不当な扱いへの口外しづらい怒りが鬱積しただろう。
 しかし、知識人サイドは六割半の結果に納まりが付かない。当然だろう、きゃつ等アイヒマン党が2/3を占めれば合衆国はアイヒマン国になってしまうではないか。我ら知識人には学内の事前アンケートによれば一人のアイヒマンもいないというのにである。だから、結果以前に実験そのものの倫理性を問うて、人間のアイヒマン性よりもミルグラム的倫理の後退がアイヒマン的嗜虐性を助長したかのように塗り込めたくなるのだ。

 このような不都合な体裁の実験をはじめあれこれやって来た博士だが、私はとくに「手紙実験」に興味を覚えた。自国内であるが、遠方の見ず知らずの誰かであっても、知己の紹介を次々経て中継ぎ6人を介せば大概渡りを付ける事ができるという結論だが、広い世間も意を決して求めれば意外と繋がる。世間は狭いというのではない。自分と間の6人とが力を尽くせば、例えば2/3がアイヒマン党であっても彼らを避けて残り1/3を糾合するのは困難ではないという事だ。もっともそれができたからどうなるのか、アイヒマン性とはそんなはっきり双極的な事なのか、それとも程度はとりどり、発現条件も様々な、誰にも潜んでいるものなのかは全く分からない。

 だから、邦題を付けるのになぜ「後継者たち」としなかったのか。もちろん日本の配給元の「気障り邦題」に過ぎないが、一方、それは単純に考えればあなたもまた2/3はアイヒマンで出来ているフシがあるからという、あなたが後継者かもということにも取れる。
 実験にどんな縛りを感じていたのか知れないが、実験を中断するのが道義心からとしても、ナチスに無抵抗で占領を許してしまったオランダ人の悔恨に基づくのか、実験の裏を想像せず感情に任せた事なのか、背後でどんな力が働こうと抵抗にやぶさかでない信念があるのか、なににせよ、それでもその場がアメリカの大学の施設内である以上、ナチスや鉄衛団のような相手ではないと信じればこそできる抵抗には違いないだろう。
 では、あれから一世紀がやがて経とうという時、ナチスや鉄衛団が再来するような事情のもとで同じく1/3がミルグラムに対したように抵抗を示せるだろうか。
 家族や友人が社会の敵として連座させられるかもしれない中、それでも自分を通せるのか、そのためにどんな信念を持てば叶うのか。いやな想像しか突き付けないこの映画の評判が悪いのはむしろ一番聞かれたくない事を聞いてくる無神経さへの忌避感情によるのだろう。

 ミルグラムの最初の業績がこれほど気障りに伝わるのは自分の心を覗かせる不快な内容を含んでいて、大概の人は自分の身の程をさらけ出してあんな選択をしてしまったのが残念で後悔もするけれど、実験の主旨を知れば次の折には突き付けられた選択への向き合い方が変わるかもしれない。しかし、次の折とは何だろう?ミルグラムの再試のわけがない。それは命が掛かるような事になるかもしれない。だから、被験者になった意義を認め、実験の継続を支持するのだ。より多くのひとが身の程と向き合えば次の過ちを防げるかもしれないから。そして、あんな自分と二度と向き合いたくないからなのだ。
 それを思う時、被験者の一人が終了後の学習者との引見ですべて「自分の責任」と述べたとした事を思い出す。事務的に実験をこなした一方で、加害事実を認める。これはミルグラム実験を初めての経験とする人々と異なり、実際に「自白の強要」に関わったことがある人物かと想像した。ミルグラムはこのケースについて特別な感想を見せないが、彼はその通り自分の責任と告げた以上の事は訊ねられないから口外しなかったのだろう。自白を求められた側か求めた側かは分からない、しかし、その結果自分に何が残ったか「自分の責任」のひと言が示している。
 命が掛かる本番がやがて巡って来てまた去って、いつか第2のミルグラム実験が忘れられた頃に実施されるとき、「自分の責任」と告げる人はどれほど現れるだろう。だから、実際には行われなかった欧州での実施に思いが向いてしまう。ナチス時代、戦争の時代から15年、きっと誰からもそんな言葉は聞かれまい。それを口外するくらいなら誰も実験に応募しないだろうし、その内容に気づかずに応募したらそれをやり遂げられるだろうか?それとも、敢えて長いものに巻かれてみせるのか?記憶に残る事に対して、現実の人生が掛かった選択なわけでもないこの実験にどう対処するだろう。もはや知りようもない事で惜しまれる。

 最後に気障りな事をひとつ。この映画のおもしろさの要素でもあるが、「ミルグラム博士」本人の語りで案内されるほうぼうが奇抜にも芝居の書き割りで示される。博士の生い立ちと最終年の語りではナマものでゾウまで登場する。
 現場の使用が叶わなければ代わりで再現するのでなく現場の絵を参照するんだろうか。それらを繰り返し見ているうちにそれが監督の工夫には違いないが、博士自身のある種の無神経さの発露に感じられてきた。
 この映画自体が博士の案内で進行し博士の独り語りの中にあるように映画の体裁で作られながらも博士の回想を博士の仕様で表すというミルグラム流がおもしろいと同時に独創的に他を無視してのっそりと通過してゆくのだ。それは倫理以前から人間に備わった今では後ろ暗いとされるものを掘り起こす博士の逆撫でしてもやまないところと通じるようだ。
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