海

マルメロの陽光の海のレビュー・感想・評価

マルメロの陽光(1992年製作の映画)
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「海にはことばが眠っている。こんなに静かなのに、ことばが眠っている。こんなに静かに、ことばが眠っている。」わたしの書いた詩を読み上げた赤い唇。わたしの字を見つめていた茶色い眼。冬の日の午後、雪の降りそうな銀色の校庭、フィッシャーマンのセーター。詩とともにある美しい記憶。あれからわたしはずっとことばを書き続けている。まだ知らない明日を知ろうとするとき、わたしは過去に頼る。美しいものを忘れたくはなく、悲しかったことさえも、失いたくはない。人は皆・・・、あるいはわたしは、終わってしまった何かに執着しながら生きている。ときおりそこに運命が重なりあい、そのために一晩でも十年でも費やすほどの愛着へと変わってしまう。わたしはそうしながらも思っている。後ろを向いて生きていくことが、前に進めないことだとはかぎらないと思っている。わたしは見ていたい。過ぎ去ったすべての記憶の中へ吹き抜けていく新しい風を。マルメロを金色に輝かせる陽光と、そこに浮かび上がるヴェルヴェットのようにやわらかい影を。わたしたちの生命の光と、死滅や後悔の暗い影を。「人は恋しさも可懐しさも慕しさも最愛さも生命を掛くるは幸福である。」わたしはわたしの中にあるすべての切なさのために、生命を掛けたい。暗い時代、みたされぬ生活、たった一輪でしか咲くことのできない花のように苦しみに耐える人間だけを、わたしは抱きしめたい。そんな弱くてちっぽけなわたしを、あなたは強く強く抱きしめる。あなたはわたしだ。海辺の砂つぶのように、愛の苦労は数えきれない。でも、それは悲しいこと?死をもって完成するわたしたちの運命。目を閉じれば無数に甦る記憶の渦。海にはことばが眠っている。こんなに静かなのに、ことばが眠っている。こんなに静かに、ことばが眠っている。

ヴィクトル・エリセ。彼の映していた美しい少女たちは、本作においてマルメロの実だったのだと、映画が終わってしまうほんの数分前に気がついた。その瞬間に、何もかもが正しい場所にもどって、名も知らぬ遠い誰かが突然に、わたしを深く愛してくれた。戦争やマルメロに差す陽光や雨音や生きている人よりもきっと多い死者たちとともに、わたしは抱きしめられていた。これもまた不滅の映画だろう。映画が好きだ。
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