蛇々舞

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けの蛇々舞のレビュー・感想・評価

2.0

「スターウォーズ」が終わった。
いや、“終わらされた”。
それを、まざまざと見せつけられた映画だった。

「最後のジェダイ」が大好きだ。

あの映画が完璧だったというのではない。
たしかにシリーズの積み上げのいくつかを壊していたのだろうし、物語の中身は、たった数日間の追いかけっこを、こねくり回した展開で描くだけだ。

それでも、ダークなルーク・スカイウォーカーは素晴らしいアイデアだった。
落ちぶれ、瞳を、かつての強さでなく恐怖に揺らがせる彼が、それでも最期には“あの”ルーク・スカイウォーカーとしてカイロ・レンの前に立ちはだかり、若者たちに明日を繋ぐため命を燃やす。
「主人公ではなくなった、あるいは、その資格を失ったルーク・スカイウォーカー」の描き方として、本当に心を掴まれた。
例え演じるマーク・ハミル自身が難色を示し、観客の多くが、偉大に弟子を導くジェダイ・マスターの堂々たる居姿を期待して裏切られたのだとしても。

「フォースの覚醒」も好きだ。
ジョージ・ルーカスの創造した世界観へのリスペクトに溢れ、その雰囲気、手触りを継承することに注力されていた。
エピソードⅣのプロットを丸々拝借しながらも、だからこそ現代的にアップデートされた点が強調されていた。
ただ、それは自分の期待した“まったく新しいスターウォーズ”では、なかった。

言うまでもなく、スターウォーズはSF大作の偉大な古典である。
その後の全てのエンターテイメントは、旧三部作に大きな影響を受けただろう。
言い換えれば、今日の多くの映画群は、スターウォーズというシリーズの延長線上に作られているのだ。
おそらく公開当時に革新的だった全ては、今や何ら目を引く要素ではない。

おそらく「最後のジェダイ」のライアン・ジョンソンは、ただ、そのやり方を忠実に堅持し、枠の中でのパフォーマンスに終始するだけでは、偉大な古典の力を使い潰すだけだと判断したのだろう。

結果、彼が選択したのは、全く新しい試みだった。

どこまでも胸のすく冒険活劇だったスターウォーズに、彼は文学的な要素を与え、深層的な構造を追求した。
(映画では物事、人物の二面性が強調された。「我々にはルーク・スカイウォーカーが必要なのです」「君たちにルーク・スカイウォーカーは必要ない」「息子(ベン)は行ってしまった」「誰もどこにも行っていない」レジスタンスにもファーストオーダーにも与するDJ、ベンに対してセイバーを起動させるルークの視点と、セイバーを手にした師を見上げるベンの視点)
なにより、アナキン→ルークと紡がれた“血脈の物語”という側面の否定。
最後には幼い子供が、フォースを操る姿が描かれた。

「私は最後のジェダイではない」

正直、心踊った。
ルークを侮辱しているという評も見るが、そんなことは微塵も思わなかった。
身も心も老い、弱ったルークこそ描かれたが、前述した通り、彼は最後に“あのルーク・スカイウォーカー”の姿も見せてくれたから。

偉大な古典シリーズの枠を、ぶち壊す。
新しい時代に、ディズニーというスポンサーを得て、最新三部作が大きく飛躍するには、あるいは必要なことだった。
古い人間たちの「これこそがスターウォーズだ!」という満足のみに応え、新たな観客たちに「? ……ふぅん」と苦笑いされて終わらないためには。
そのためにライアン・ジョンソンは、「フォースの覚醒」で撒かれた要素のことごとくを撤回し、さらなる三部作へ至る導入として、シリーズ3作目を“誰も観たことのないスターウォーズ”として作るための土台づくりをしたのではないか。
そもそもジョージ・ルーカスという作り手の手を離れたのに、ジョージ・ルーカスが作った頃の雰囲気の“再現”を至上命題にすることに、なんの意味があったのだろう?
批判はハナから承知の上ではなかったのか?
それを乗り越えて、あえて新しい挑戦で次世代のファンを生んだシリーズは、仮面ライダー、ウルトラマンと多く存在するではないか。

だから「最後のジェダイ」を観たとき、大いに歓迎した。
もしかしたら、次の映画には多くの次世代のジェダイ騎士たちが登場し、ついに闇の勢力との全面対決が描かれるのかもしれない……。

前置きが長くなった。

そんな期待を膨らませながら、公開当日、映画館で目撃した「スカイウォーカーの夜明け」

それは、あまりに冒険心に欠ける一本だった。

ツボを押さえた作劇、展開は、よくできている。
シリーズOBたちの活躍も、楽しかった。
実に上手く、“過去の遺産”を各所に散りばめていた。

そう、過去の遺産である。
積み上げてきたシリーズの歴史を、ただ作品を彩る出汁に使った。
あるいはファンのご機嫌を取る、サービスとして。

たしかに楽しかった。
カイロ・レンの前に現れるアノ人。
ファイターを持ち上げるルーク。
ファルコンで飛ぶカルリジアン。
高笑いするパルパティーン。

けれど誰も彼も、物語的な意義の乏しい登場だった。
ただ予定調和的に終わりに向かう展開の上で、観客を喜ばせるために適宜、客演する。

製作側が選んだのは「最後のジェダイ」からさらに物語を広げるのではなく、「最後のジェダイ」の展開をこそ引っ込めて、ファンの逆鱗に触れないよう慎重に、懐古主義に傾倒しつつ無難な物語に収めることだった。

要因としては、いろいろなことがあげられるだろう。
最後のジェダイは批評家受けする作品だったが、あまりにファン心理を無視しすぎた。
おかげでハン・ソロは興行的に失敗。
これで「スカイウォーカーの夜明け」まで失敗すれば、スターウォーズというコンテンツそのものが求心力を失いかねない。
ビジネスとして、もはや失敗は許されない……。
だから、もっとも確実で、リスクの少ない手段を採用したのだろう。
旧シリーズの遺産を総動員してファンのご機嫌を取る、という。

結果、JJは上手く物語を纏め、終わらせたと思う。
しかし、映画の内容は、イベントに次ぐイベントで脈絡もへったくれもない。
捕獲されたチューイを助けるため無策で突っ込む場面やハックス将軍の結末など、その最たるものだ。
さらには手から出る稲妻、命を分けるフォースの力など、今作で新たに導入した要素を今作の中で拾っていくガッカリパターンである。

はっきり言って、物語を読み取ろうとする鑑賞姿勢を取ること自体が馬鹿馬鹿しい。
ただ口を開けて、大人しい筋立てと、懐かしさの雨に打たれるためだけの2時間半だ。
何度も振り返りたくなるような、心震える場面は、少なくとも自分にとっては皆無だ。

楽しかったことは否定しない。
でも自分が目にしたのは、「スターウォーズというシリーズの遺産が、無惨にも使い潰されて終わったという結末」以外のなにものでもない。

スターウォーズは終わった。
終わらされた。

なにに?

思い出補正を神格化する一部のファンの声に。

商業的失敗を恐れる制作会社に。

残念ながら、このシリーズは、将来に向けて語り継がれるようなものでは、なくなってしまっただろう。
変革に失敗した老人は、ただ消費され、忘れ去られるのみだ。
本当に、さようなら、スターウォーズ。

最後に、好きな場面をいくつか。

ロッククライミングに挑むレイの、美しい肉体は本当に素晴らしい。
女性の体は、時としてセクシーさを売りにしがちだが、レイの場合は、鍛え上げられた体がただただ健康的な美しさを見せていて、彫像が動いているかのようだった。

あと、ベン・スカイウォーカーが「受け取った」直後の、レン騎士団への「すまんね、そういうことですよ」的なゼスチャーが素敵でした。

以上です。
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