ゆうすけ

スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明けのゆうすけのネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

死者の口が開いた! パルパティーンが生きていたというツッコミどころを冒頭にさらっと済ませた思い切りのよさは素晴らしいと思う。

本編はピタゴラスイッチのように展開がひたすら連打されていく感じで、連続ジャンプなどの新しい絵もありつつ、イウォークまで登場する物量作戦で最後まで見させられる。ただし脚本はかなり雑で、「あれえ困ったぞ」「そうかこうすればいいんだ」みたいな展開が秒で乱打されていくので、見ていてだんだんどうでもよくなってくる。ハリソン・フォードやマーク・ハミルが律儀に出てきてくれるのはありがたやありがたやと拝みたくなる一方、死んだ人がカジュアルに復活する鳥山明的世界観が旧三部作よりも強まっており、レイアが死のうがチューバッカが死のうがみんな死のうが霊体になって会えるヨという感じであまり哀しくない。

ストーリーの要素が多い分芝居場が少ないのも問題で、レイとレンという極めて印象的な主人公ふたりが何に悩み何を乗り越えたのかが最後まで判らなかったのが残念だった。特にレイの造形はEP7〜9で統一されておらず、彼女をパルパティーンの孫にするのなら、EP7では普通の人間として生きたいが内なる力に怯えている女性として、EP8では闇落ちして玉座に座る次世代の皇帝として、EP9では呪われた血筋を乗り越えて自らの生きかたを定めた自立した人間として描くべきだろう。彼女が最後に名乗るべきはスカイウォーカーの名ではなく、ただのレイか、親の名前であるべきだった。勝手に改名されて、死んだお父さんとお母さんが可哀想だよ。

アダム・ドライバーは大変な名優で見ているだけで眼福だが、レンも結局何がしたいかよく判らない人で、EP7では親を惨殺してベン・ソロからカイロ・レンになったはずなのに、ほとんどなんの葛藤もなしにまたベン・ソロに戻ってくる。レイが自らの血筋を乗り越えていく女性なら、レンは呪われた血族になりたいけれどもなれないワナビーとして描くべきで、俺はパルパティーンやベイダーにはなれなかったが、俺のままでいいのだと自らを受け入れるところを解決にすべきだった。ソロの息子、アナキンの孫だったという設定がいらなかったのだ。

レイとレンが共闘しているシーンはアガるのだが、最後にふたりがキスをしてるのはやりすぎ。それまで恋愛関係など何も描かれていないのになんでキスをするのか、あれでは酒飲んだら気分が高まってチューしちゃいましたという大学生の飲み会と同じである。彼女らの関係はもっと複雑なものであったはずで、それを表現するのにキスが出てくるあたり、JJエイブラムスの人間理解の底の浅さが出ていると感じた。ぼくが石田衣良だったら「JJは高校時代恋愛してなかったんだねえ〜」とか言って炎上しているところだ。

結局のところ、プリクエルもそうだったが「旧三部作とのつながりを作る」というそもそものグランドデザインが間違っているのだ。パルパティーンが生きてるんならアナキンが死んだのに意味はなかったのかよとか、EP6の結末であんなに幸福な終わりかたをしたのに結局ソロやルークやレイアは悲惨な死に様かいなど、旧三部作の価値を毀損する場面が多々あるのも気になる。ストーリー上の必然性など何もなく、チューバッカにメダルをあげたところは目を覆った。「ルークとソロはメダルをもらえたのにチューバッカはもらえませんでした」というのはファンコミュニティにおけるあるあるであって、そんなものが作品世界の中で重要視されているわけがない。映画の中に観測者の視点が混ざっているのである。なんだこれは量子力学?

ただまあ、プロジェクトが破綻することを察知したのか、もう新しいSWを作ることは諦め、とにかく旧ファンを喜ばせるところに撤退ラインを引いてノスタルジーに全振りし死地を戦い抜いた制作陣は仕事人として立派だとは感じた。人間にはデスマーチを収束させてブツを納品しないといけない現場もあるからね。

後年、新三部作はプリクエル同様失敗に終わったという評価が定着していくだろう。それでもまあ最後のほうで「もうレイやレンをスクリーンで見るのはこれで最後かあ」と寂しかった思いもあり、なんだかんだと楽しませてくれてありがとうという心境ではあります。
ゆうすけ

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