カラン

ピクニックのカランのレビュー・感想・評価

ピクニック(1936年製作の映画)
4.5
「ルノワールはおそらくすべての映画作家のなかで、もっとも完全な芸術家だ。つまり、フォルムが知的テーゼや美学的体系によって決定されることが、もっとも少ない作家だということだ。」
アンドレ・バザン



ジャン・ルノワール、初めて観たが、なるほど、凄まじい。画面が自然の物理的運動の集積装置とでもいうかのように、そよぎ、煌めき、照り映える自然が、カメラの前に集まってくる。ジョナス・メカスが『リトアニアへの旅の追憶』で、運動の切断と早回しによって画面をきらきら発火させていたが、ルノワールは違う。まるでピカソの言葉のように映画を撮る。

I do not seek, I find.
「私は探したりしない、ただ見つけるのだ。」

素っ頓狂な声を出している連中は、この上なくやかましい。馬鹿の声が遠ざかり、川辺の木陰で女の腰に手がまわる。キスする前から、女の頬を涙が流れている。すると多幸感の輝きがこつぜんと消失し、不穏な空気をカメラは捉えだす。雨が川面を細かく打ち、また複雑な光の乱舞が起こるのだが、トーンが落ちていて、暗い色調の中、秘密の木陰から遠ざかる川面を写し続ける。画面は風も捕捉する。かしぐ木々、ゆらぐ雲。圧倒的な空間の劇的構成力。川の流れの向こうに遠ざかる思い出の場面が、なんと切ないことか。しかも、これら全ての動きを、パロールなしに展開するとは!





☆ウンチクとゴシップ

ルノワールがこの映画を撮り始めたのは1936年であったが、諸般の事情で撮影は頓挫した。その後ナチスがフランスにやって来て、この映画を取り上げてしまうも、フィルムは生き延びる。アメリカに渡っていたルノワールはこの作品への関心を失くした模様だが、「シルヴィア・バタイユを好きだった」というプロデューサーのブロンベルジェはこの映画を忘れられず、ルノワールの許可を取って、作品理解を促すための字幕と劇伴をつけて公開した。

しかしこの劇伴はどうもうるさくていただけない。そこがマイナス。ドビュッシーとかにすべきでないかな。いや、ラベルはどうだろう。とにかくこの劇伴は光、風、波、木々、何とも合ってない。強いて言えば、うるさいお父さん、お母さんには合ってるかも?思い切って音を消して視聴するのも手かもしれない。

ジャン・ルノワール監督は、印象派の画家オーギュスト・ルノワールの息子さん。

主演のシルヴィアは、ジョルジュ・バタイユの妻だったが、この映画の撮影時には冷めており、先のブロンベルジェと関係があったとか。この映画の数年後には精神分析家のジャック・ラカンと不倫が始まり、再婚することになった女優。この人を見てみたいというゴシップ趣味でこの映画を観たのだが、まあ女優さんは普通かな(爆) また、元旦那のバタイユがエキストラで出演しており、神父の黒衣を着て、一瞬、ブランコに乗ったシルヴィアの背中に目をやる。

助監督にルキノ・ヴィスコンティやジャック・ベッケルの名がある。また、セリフの協力はジャック・プレヴェールとも。文化人が総揃いで作ったようだ。





追、

この凄まじい映画は、しかし、未完のトルソtorsoと考えるのが吉なのか。

モーツァルトの信じ難いほど美しいレクイエムは、多くの場合、実は弟子のジェスマイヤーが手を入れたもので演奏されている。そのジェスマイヤー版に対して、作曲家や指揮者の中にはモーツァルトの美しさを損ねていると、スコアを改訂する人もいる。

この映画もまた、個々の局面の美的水準は異常に高いが、ルノワールが完成させたものではない。完成させ公表したのは、ブロンベルジェである。頭や腕のないトルソ美学のように、もし・・・だったら、と欠如を楽しむべきなのではと思う。この映画の美しさには賛同するが、とにかく音楽が・・・。
カラン

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