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美しい都市のotomisanのレビュー・感想・評価

美しい都市(2004年製作の映画)
4.2
 こんなことを云うのもなんだが、終わってくれてほっとした。この感想は映画のこの物語でみんなを悩ましている問題に決着がついてくれたからではなく、決着に至る出口は幾つもあるのに、関係者の主張や思いがぶつかり合い変容を重ね何時まで経ってもどこにもたどり着けない気がしてならないからだ。悪い映画ではないが、何と云うか関わった事を後悔するような気分にさせる。

 悪い映画ではない、か? この二重否定で肯定するような感じの大本はどこにあるのだろう?

 まず事の発端は、2年前、16歳だったアクバルが交際相手の父親に交際を禁じられたことから心中に至り、その相手を殺し、自分は死にそびれ殺人罪で死刑を下された事に始まる。イランの死刑執行は18歳から許されるそうで、誕生日にアクバルは少年院で友人アーリたちからお祝いを受けるのだが本人は嬉しいはずがない。その日以降身柄は刑務所に移され、いつ執行となるか分からない。
 そんな事情は初耳のアーリは、そりゃあんまりだと、俺が説得して相手の親御さんから死刑の取り下げを貰ってやると発奮する。実はあと2か月で刑期満了のアーリだが、それを繰り上げてもらおうにも酌量する余地のない問題児っぷり。ところがその意気や良しとする院の先生の「尽力」あって出所OKを貰ってしまう。
 こんな融通無碍なところはアーリと先生およびその関係者だから笑っていられるが、これが現実ならどんな人間がどんな取引でなにを通してしまう事になるんだろう。そんな闇を笑い飛ばせるわけがない。

 出所したアーリが訪ねるアクバルの姉、フィルゼーはこの2年しきりに被害者の父に死刑の取り下げを願いに通っていた。これは冤罪とか不当判決とかいう話ではなく、取り下げ権を持つ父親に情状を訴え酌量を求める事であるが、2年間これに悩まされたとして父親は犯人が18歳となったいま、執行を早めるよう役所に願い出る。
 すると役所からは早期執行を求めるなら、犯人の家族に「賠償金」を払う事で受諾するという。これにはただ驚くが、この「賠償金」とは被害者が女性で犯人は男性である場合、男女の価値に差があるというイランの通念に基づき、その差分を金銭で男である犯人側に贖うことで、イスラム的には望ましくない父親の「私的制裁性『死刑執行を早めろ』の企図」を了解しようという法的手続きである。
 男女の価値の差とはイスラム以前からのイラン社会の通念だが、イスラムはそれを否定しきらずに抜け道として、それを通すなら相応の債務を負えと言っているのだが、高いハードルを設けてそれでも昔の道、それはとりもなおさずイスラム的には「悪い道」なはずだが、そこを辿るのかと問いかけるものである。イランがイスラムを受け容れる事にはどこか謎を感じるがこの融通性がカギなんだろうか?これがさらに古いカトリックや正教会ならどう応じるだろう。これも気持ちいい事ではない。しかし、映画の中のイランに向かって何ができる。

 役所にそう言われても失業中の父親に払う金もなく、ならば自宅を売って金を作ろうかという運びにもなる。一方でフィルゼーからのしつこい訴えはやまず、そこに輪をかけてアーリが現れ、やけに理詰めな追及を仕掛けるが、それが切っ掛けで、父親の自宅売却も頓挫に追い込み、金銭での解決の糸口が産まれるかに見える。しかし、世界から制裁されるイランの隅っこのフィルゼーにもアーリにもどこに金づるがあるだろう。

 そういえば、少年院で7年過ごしたアーリがフィルゼーや父親に会っているほかの時間、一体どこで何をしているのか?「美しい都市」とはアーリの知られざる本拠地の事で、彼はそこの「宮殿」から通って来るのだが、彼の7年の刑は盗みによるそうで、7年も食らうどんな大泥棒なのか。7年のブランクで今度どんなお頭の下でどんなお勤めで父親への多額の賠償金を稼ぐつもりなのか。
 それ以前に、ワルいのに院では先生とも実懇そうだったり、そもそもアーリとは誰か?これだって監督はチラリとも紹介しないわけで、誰にも見せられないいったいどんな地獄と極楽を綯い交ぜているんだろう。

 おそらく父親のほうも素性不明なアーリの金銭解決などあるわけないと思っているだろう、しかし、その妻は、後添いとして四肢に障害のある娘を連れて嫁して来て、この賠償金で娘の治療が叶うと期待を寄せて始める。そして、それが叶わなくとも、家を売ってまでして報復を遂げ、現に共に暮らしているもう一人の娘、愛情の欠片も感じられない後添いである自分の連れ子の治療は歯牙にもかけない夫を見限って、達者なアーリを娘の結婚相手にできないかと期待を膨らませてしまう。
 これまでも既に出口なしな憂鬱を感じてきたのに、輪をかけて人情が絡んでしまう。アーリにはフィルゼー、実は離婚済み同居状態、とのつかず離れずの微妙な日々があって、人生の3割は塀の向こうで残りは泥棒で、アクバルを助けたい以上の何もない。未来も手に職も抱負もないのになんでこうなるんだ。

 このころ、アクバルは執行の日を願って待っている。死にそびれるくらいだから自分ではもう死ねないだろう。ならば、当初の想いを果たすには如何に慄こうとも執行してもらうしかない。それを不憫だとアーリもフィルゼーも嘆願するのだがそれも道理なら、娘の死から2年、報復以外に心のやり場のない父親は神を冒涜してでも和解の道を拒む。これは道理とは思えないが反面よくわかる。
 神はもともと、許さない質のイランの人に、無理でも赦す事を知れと説得するが、どうしても無理なら、容易でない課題を課し、それと引き換えにそうしろと提案する。
 イランの刑罰は執行までの猶予期間をこうした被害者側と犯人側との交渉で刑法上の解決に次いで第二の解決を促すのをよしとしているのかもしれない。そこでの「心中のし損ない」の第二の解決として、「合意での相対死なのに、相手を裏切った片割れの意気地のなさ、卑劣さを悪意として許さないのか、それとも、それを誰にでも潜む人間の弱さとして許すのかの判断を時間をかけて探り合う」よう勧めているようでもある。
 だいたい、法務大臣には真っ先に署名すべき大罪人は幾らでも居るのだ。それを被害者親族とはいえ一私人によって司法の決めた死刑が取り下げられてしまうなんて、刑事なのか民事なのか、こんな事案なんぞに関わろうという気が起きるだろうか。しかも、この同じ時間、死刑囚は約束された突然死と面と向かう事で実は罪を贖い続けているのかもしれない。

 こんなアクバルについての思いだが、イラン社会としてはまるで違う感想なのかもしれない。女性の地位の低さ、地位は低くても後ろ盾となる父親や夫の存在が彼女の人権の引き受けだけでなく、財産として、後ろ盾を引き受ける男個人に加え、その権利侵害が家門の名誉や例えば婚資としての価値の減損に関わる事と思案されるに至るほど過剰に権利を訴えてくるように感じる。
 この過剰さが報復意識の強さを支え、その重さが父親個人に対して報復以外の結論を許さないよう重圧をかけているようにも感じる。それがイランだかペルシャだか中東だかのありかたなのかも知れない。
 従って、これに歯向かったアクバルの罪状は単に殺人ではなく、情死において、死と向き合う上での間抜けな意気地なしというだけでなく、イラン社会への反逆として重罪を呈しているのかも知れない。
 それなら、法務大臣もこの軽はずみな若者に甘い顔はしないだろう。しかし、死んでゆくアクバルにはそれはどうでもいい事かもしれない、既に相手は2年も前に逝ってしまい、グズな自分の身の始末を人任せにしているだけで、あとは神様がゆるしてくれてふたりの事を受け容れてくれると信じるだけなんだろう。しかし、それでもアクバルはその娘をやはり愛しているのだろう。そのことは同じく娘を深く愛していたであろう父親の琴線を共鳴させる事はあるのだろうか。アーリもフィルぜーもそうと願って信じてアクバルを不憫と思うんだろう。

 問題を作った当人が一番わかりやすい状況にあるように思える。対して周囲の人たちはただただ困難な中で合意を探しあぐね、問題をあらぬ方向に広げてしまうようでもある。こんなことになる背景のイラン人のこころのあり方や社会の在り方をこれは批判しているわけだろうか?
 問題がひろがり尽くし選択肢も出し尽くしたところで、こじれきって終わって見せて、イラン人に対しても、もうこんな悪い映画はたくさんだと云わせたかったのかもしれないと感じている。
 それでもこうした葛藤をきっと永年幾度も繰り返して来たのだと思うと、灰汁の強い彼らに2時間後親しみのようなものを覚える。こうした辺りに世界を相手に我を通すイランのイランらしさもあるのかもしれない。
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