「The Danish Girl/リリーのすべて」
世界初の性転換手術をした人、アイナー・ウィーゲナーという芸術家の半生を描いた作品。
扱っているテーマ、人の心とその中にあるアイナーとリリーという異なる心を持った人間と、その周囲の人たちの葛藤などを丁寧に描かれているだけあって、そっと触れないとすぐに傷ついてしまうかのように繊細に作られた作品。
普段から「V8!V8!」と心の中で叫び、ジョー様への忠誠心を忘れない僕にとっては、少し住み分けの違う映画ではあったかもしれないけれど、やはり何か感じるものがあったのだろう。
同性愛、トランスジェンダー。
この二つは、この映画を観る上で避けられない重要なテーマだとは思う。
だけど、僕は少し違う見方をして、この映画を受け止めました。
「ロング・グッドバイ」の中にこんなセリフがあったことを思い出しました。
"さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ"
心の変化なんてものは、誰にでも起こることだし、それこそ毎日更新するものでしょう。
だけど、心の変化がもたらす"環境の変化"というものも、これまた計り知れない。そして、一度変化してしまったものは取り返しがつかないもの。
「あまちゃん」の中で、アキが出演した
"見つけてこわそう"
逆再生出来る能力を持つアキちゃんが物を壊すことによって、物のありがたみを逆説的に教える教育番組がありました。
「Q10」の中でも、薬師丸ひろ子演じる化学の教師がこんなこと言いました。
"スイッチが入ったら、もう元には戻れない"
もちろん、トランスジェンダー手術が、命を落とす危険性のある手術ということ、そして、後戻りのできることではない事だから引用をしました。
でも、それだけではないんです。
アイナーの中にあった、自分は女性であるべきだという心のスイッチは、きっとアイナー自身にも予想がつかないほど大きな存在であっただろうし、もう元には戻れなくなっていた。
ゲルダはどうでしょう?ほんのちょっとした遊びゴコロで、旦那に女装をさせただけなのに、旦那はもう元の旦那になって帰ってくることはなかった。
この映画はゲルダの視点が中心に作られてるのは明らかです。
自分のそばから、大切な人が離れていく映画といえば、それこそシンプルな恋愛映画なのでしょう。でも本作がその他のそれと違うのは、ゲルダの元からアイナーが離れていってしまった瞬間に、アイナーはアイナーでさえなくなってしまう。
アイナーがアイナーでなくなる。
でも、死に別れることではない、そこにはアイナーだったはずの美しい人がいる。
それでもなお、ゲルダがアイナーの望む旅立ちに献身的という言葉を超越したような、激しい痛みを伴っても送り続けたものは、一体何だったのだろう?
見終わってからずっと考えていました。
愛?
それは当たり前だ。
じゃあ、どんな形の愛なんだろう?
そして、ふと見えた春の空から答えが浮かびました。
絵
でした。
誰かを愛するということは、その相手を、その相手の世界を、その相手の世界の見え方を愛するということに他ならないと思うのです。
僕はそう思います。
僕はそう強く思います。
例えば、ゾッとするほどに感じた被写界深度の浅さは、アイナーの世界感なのでしょうか。
アイナー自身がリリーを望むほど、物語の中盤に進むにつれて、フォーカスも柔らかくなっていくように僕は感じました。
ゲルダは、アイナーが見えていた世界をも愛していたんじゃないでしょうか?
肉体をトランスジェンダーしても、性別が変わり、心が今とは違うものになってしまってもなお残るもの、それはアイナーであろうがリリーであろうが変わらない、とゲルダが信じた、"愛する人の世界=絵"だったのではないでしょうか?
ゲルダが最も望んだものは、彼が絵を描くこと。
物語の終盤、ゲルダが
"私の絵に背景を描いて欲しい"
という願いは、リリーになってもなお、
"あなたの見てる世界が見たい"
という思いだったのではないでしょうか?
それはまるで、
"あなたの見える世界と、私の見える世界はまだ同じ場所にあるよね?"
と、問いかけるかのように。
映画の見方はそれぞれです。
いろんな捉え方が想像される映画だからこそ
。
これが僕の世界の見え方でした。