U-NEXTに入ってからはや数カ月。
「そういや、HBO作品が多かったんだよな」と思い、検索したところでたまたま発見したのが本作。
HBOだからテレビ映画ですね。
ケビン・ベーコン主演だし、尺も短いし、ちょこっと観てみよう、なんて思ってたらとんでもない名作だった。
ただし、邦題はちょっといただけないですね。
「おくりびと」は二匹目の泥鰌っぽいし、「戦場の」なんて100匹目か、101匹くらい。って書くと、泥鰌じゃなくサルかワンちゃんみたいですが。
原題は実に素晴らしい。
"Taking Chance"
直訳すれば「チャンスさんを連れて帰る」なんだけれど、英語圏の人はもちろんこの字面から、"Taking a chance"か"Taking chances"を連想するわけで、チャンスさんは"Taking a chance"できなかった、という非常につらい意味を感じるわけですね。
あるいは、スピ師匠の「ライアンさんを助けて帰る」も思い出します。
あれ、日本題では名前しかないけれど、原題は本作とよく似た"Saving Private Ryan"でした。
これって、1970年代以前なら「ライアン二等兵救出作戦」って邦題になったでしょうね。
あ。なんで70年代って限定するかって言うと、1980年のゴールディ・ホーン主演作がすでに「ベンジャミン二等兵」という邦題じゃなくなってたから。
さて、実は"Saving"があるとなしで、全然意味が違ってきますね。
「プライベート・ライアン」だとライアンが主役に思えるけど、"Saving"があれば、その助けてる主格に相当するトム・ハンクスのチームが主役になります。もちろん、あの映画はそうやって描いてました。
で、そこも較べるとね。本作ではタイトルが最後に出るので、「ああ。"Saving"じゃなかったんだなあ」と悲しくなるわけです。
本作の物語上の主役は、我らがケビン・ベーコン。"Taking"の主格だもんね。
ちょいちょい「愛すべきバカ映画」に出てくれるところも含めて信頼できるアニキ。
でも、本質的な主役はチャンスさんなんですね。
ここが"Saving Private Ryan"と逆になってて面白い。
そんでもって、チャンスさんはいないの。
「登場しない人物が主役」という作りは「ゴドーを待ちながら」あたりを嚆矢とする作劇技法のひとつですが、その作劇ジャンルの作品の中でも本作は非常に珍しい作りになっている。
ベケットは主役がいないことを「神の不在」の象徴にしていたので、この作劇法を用いた作品はだいたいがそれに倣って実存主義がテーマになるんですね。我々日本の映画ファンが近作で真っ先に思いつくのが「桐島」ですが、ほかにもいっぱいある。
「登場しない人物が主役」には実存主義テーマじゃない作品も存在します。これも最近ですが「アルプススタンドのはしの方」の「矢野くん」。
ん~。あれを実存主義じゃないと言い切ってしまうのは、ちょっと乱暴で危ういかな。
まあいいや。だって、あれは少なくとも「中心の不在」を描いた作品じゃない。矢野くんはカメラに映らないだけで、登場人物たちのすぐ前にいるんだもの。
ご覧になった方。矢野くん、どうでした?
めっちゃよかったですよね。ひた向きだし、とことん恰好いい。いい奴すぎる。
ね。そうやって、矢野くんは実は我々にもちゃんと見えてるんです。
本作はそれとも違う。
本作の本質的な主役はチャンスさん。
でも出てこない。それはもちろん本作の序盤でわかるある悲しい理由によるもの。
いやね。ただ、その「悲しい理由」による「中心の不在」パターンなら、これまた実はちょいちょいあります。
たとえば。……って書いたらネタバレになる映画ばっかりじゃん。
書けない書けない。
ネタバレにならない例をひとつだけ挙げると黒澤の「生きる」ね。あれは作品としては第二幕まで志村喬出まくりだからいいよね。
ネタバレできない方のほとんどは、「過去パートと現代パートを往復する作品」で、「過去にいたこの人が、現代にいない理由は?」をストーリーの推進力にしてる。だからネタバレ厳禁映画ばかりになっちゃう。
フィルマのレビューって、みなさん観た後に読まれるでしょ?
私もそうなんだけれど、観終わってあたかも「感想戦」の如くにみなさんのレビューを読んでるときに、ほかの映画のネタ割られて悲しい思いすることあるもの。だから例は挙げません。
もっとも、それによって知らなかった映画に興味を持って、後で観ることもあるわけで、悲しいだけじゃなく、感謝することも少なくないんですよ。
みなさん、本当にありがとうございます。
あれっ。俺、何の話してたんだっけ?
あ、そうそう。
「中心の不在」映画として、本作のさらに珍しいのは、「物語上の主役がチャンスさんのことを全く知らない」ところ。
いや、ケビン兄貴演じる主役のストロブルさんだけじゃない。物語の終盤に登場する人々以外、一幕二幕に出てくるほとんど全員がチャンスさんのことを知らない状態なんです。
もちろん我々も知らない。
だから、本作では我々はケビン兄貴とまったく同じ体験をするのです。
そこがものすごく感動的。
本作はそもそもセリフがかなり少ない映画なんですが、感動する場面の多くはセリフがないシーンなんです。
セリフじゃなく「画」で心を動かすという、映画がすべからく到達すべき高みに達している。
そのほぼセリフがない、道中で遭遇する様々な人の、それこそケビン兄貴の言葉を借りるなら"Dignity, Respect, and Honor"に激しく揺さぶられるんです。
そこが、本作の「中心の不在もの」の中でもとりわけ稀有なところ。
ただね。私ゃさっきから作品としてはレアものとして褒め続けてますけど、現実社会に立ち戻って考え直すと、これは全然レアものじゃないんです。戦争がある国の日常ですわ。
しかもあなた。これ、実話なんですってよ。
名前までほぼ全員実名。
もう何かいろいろ胸にこみあげて、堪りません。
とはいえ、本作がエモーショナルな観点で素晴らしいのは、私がぐだぐだ書かなくっても観りゃ誰だってわかることなので、今回は技法を中心に語ってますよ。
あ、もちろん、実際には私はほとんどずっと泣きながら観てたんですけどね。
だから、冷たい奴だと思わないでくださいね(てへぺろ)。
ただ、映画ファンのサガとして、物語に没入している片側で、ずっと分析してたもんで。
ヤだねえ。スれた映画ファンって。特に私なんざ、ただの「行徳の俎」なのに。
と言い訳したところで続けます。
逆に本作でもっともオーソドックなのは、これが「行って帰ってくる物語」であること。
まあ、物語なんて、「行って帰る」か「行きっぱなし」か「どこにも行かない」パターンしかないんで、「何当たり前なこと書いてんだ」と思われるかもしれないけれど、「行って帰る」か「行きっぱなし」のアメリカ映画っていうと、絶対ロードームービーになるでしょ? でもって、ロードムービーって絶対バディものじゃないですか。
そこも本作の優れたところ。
だってこれ、スクリーン上はケビン兄貴ひとりしかいないのに、ちゃんとバディものなんですよ。
あと、本作は同時に「隠れたお仕事映画」になってるところもいいですね。
このジャンル、最近の邦画に多いですよね。これを子供の世界でやると「地味な部活映画」になる。こっちも多い。
現代日本なら矢口史靖が得意とするジャンル。
その意味では、本作の邦題がパクった滝田洋二郎作品も「隠れたお仕事映画」だったんで、パクったとか二匹目とか書いちゃったけど、そこまで悪くもない邦題の気もしてきた。
まだ褒めポイントはあります。
アメリカ映画で、戦死者の葬儀を描くシーンって数限りないじゃないですか。
何億本あるんだってくらい。いや、1895年から作られた世界中の映画を全部合わせてもそんなにないけどさ。印象としての話。
なんだけれど、「戦死」→「葬儀」の間って初めて見ましたよね、皆さん。
そこがさ、「隠れたお仕事映画」でもあるんだけれど、同時に私は「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」も思い出しました。
EP4は人生で何億回も観てきたけれど(←こっちもあくまで個人の印象なんで、大目に見てください)、「そこに至るまでに名もなき人々にどんな旅路があったか」を初めて描いたのが「ローグ・ワン」だったので、本作もそれとおんなじ「今まで知らなかった途中の物語を教えてくれてありがとう」という気持ちになりました。
旅路といえば、チャンスさんの持ち物に"Saint Christopher"のメダルがありましたよね。
聖人のメダルって、日本のお守りと同じものですね。
日本のお守りは家内安全とか金運とか縁結びみたいに用途別(←味気ない表現すんなよ)になってるけど、聖人も同じ。
聖人が日本と違っておもしろいのは目的別(←だからぁ)だけじゃなく、職業別になってることもある(←タウンページかよ)。
で、聖クリストフォロスは職業別じゃなく目的別のほう。
旅の安全を守る守護聖人が聖クリストフォロスなのです。
そこも皮肉というか、悲しいというか。
ちょっと脱線しますね。
聖クリストフォロスの由来はいくつかあるけど、代表的なのはローマ時代にキリストを背負って川を渡ったクリストフォロス。
この人は元々レプロブスさんって名前でした。
日本で言うと川越人足みたいなことをやってた。
ある日、小さな子供が渡りたいというので、背負って川を渡っていた。ところが、その子供がどんどん重くなっていく。実はそれは子供の姿を借りたキリストで、重くなっていったのは全人類の原罪が重荷(burden)になっていったから。
それでも川を渡り切ったレプロブスさんを、主イエスは祝福して、これからは「キリストを背負うもの=Christopher」を名乗るがよい、と言った。安全に川を渡したから、旅の守護聖人なんですね。
すみません。
相変わらず呑みながら書いてるんで、今日は本筋とは無関係な方向にさらに脱線しますね。
「背負った子供がどんどん重くなる」って、なんか思い出しません?
さっき書いた「行徳の俎」か~ら~のぉ、漱石つながりで「夢十夜」ですね。
あれの「#3 Dream」(←ジョン・レノンっぽく書いてみました)。
あの文豪の、今で言う短篇ホラーね。
ええい、もっと逸れよう! 「背負う話」は仏教にもありますよね。
茗荷の由来話。
お釈迦様の弟子のひとり、周利槃特はとても物忘れが激しく、自分の名前すらちょいちょい忘れた。
そこでお釈迦様は「忘れないように、名札を常に背負っておきなさい」と命じた。
その周利槃特が亡くなった時、墓の周りに植物が生えてきた。それが茗荷。
名を荷ってた人の墓から生えたから「名荷」。字面を綺麗に揃えて「茗荷」になった。
茗荷を食べると忘れっぽくなるってのは、その故事から来ている。
これも「周利槃特→茗荷」が「レプロブス→クリストフォロス」とそこはかとなく通じる。
ちなみに、周利槃特は「しゅりはんどく」もしくは「チューラパンタカ」と発音されます。
結構「チューバッカ」に似てる。
と、脱線しまくった挙句に、何となく上に書いたスター・ウォーズまで戻ってこられたので、次で最後にします。
実話ベースの映画って、本篇が終わった直後に本人映像を映すのが定番じゃないですか。
この映画にもそれがあるんだけれど、そこも本作がほかの作品と違い、凄かったところ。
本人映像パートってさ、特に特殊メイクが発達した最近じゃ、ある意味答え合わせみたいにさ、「どうです、皆さん。役者やメイクさんが頑張ったんで、そっくりだったでしょう?」って自慢げで厭味に感じることもあります。
でも、本作において、我々はそこで初めてチャンスさんの顔を見ることになるんですよ。
このレビューではずっとここまで「チャンスさん」で通してきたけど、「チャンスくん」じゃん(号泣)。
そんな感じ。もうヤバい。もうつらい。
こんな凄い作品が、冒頭に書きましたが、劇場公開作じゃなくテレビ映画なんです。
アメリカ怖っ。HBO怖っ。