河

テンペストの河のレビュー・感想・評価

テンペスト(1947年製作の映画)
5.0
https://www.cinematheque.fr/henri/film/48399-le-tempestaire-jean-epstein-1947/

『三面鏡』『アッシャー家の末裔』など、この監督のサイレント期の作品の主軸には現実を侵食する超自然的な世界、存在がある。トーキー以降、ブルターニュを舞台として撮られた作品ではそれが死をもたらす存在、人間には抗えない運命のような存在として海に象徴されるようになる。

ただし、トーキー以降の作品では同時にドキュメンタリー的な手法へと移行したため、サイレント期にあった様々な手法を用いて表現されたその超自然的な世界による理性を超えた不気味な予感のようなものが失われてしまったように感じる。

『アッシャー家の末裔』ではスローモーションやカメラ移動などを用いてその見えない超自然的な何かが風によって侵入する様が描かれていた。この映画では、引き続き海をその超自然的な存在、死をもたらす存在として、その近づく死の予感が風によって表現される。

風によって開かれた扉から嵐の予感を感じた主人公がその婚約者が漁に出かけるのを止めようとするが、彼氏はそれを聞かず漁に出てしまう。主人公は嵐を手懐けられる人の存在を知り、その人を探しに灯台に向かうが、灯台の人々はそれを迷信としてラジオを通して聴こえる予測のみ、つまり科学のみを信じる。主人公は嵐を手懐ける老人の元に向かい、その老人は嵐を止める。

科学に対する信頼が魔術的なものへの信頼に置き換わっていて、魔術的なものに対して禁止してしまうような忌避感が存在するという時代の変容が背景として存在する。嵐を手懐ける老人と嵐を予測するラジオが対置されており、嵐が止んだのはその老人によるものとも、ラジオによって予測されていたことともとれるような形になっている。

その超自然的な存在、死をもたらす存在は戦争とも重ねられる。嵐が止んだ安心感、それでもまだ残るまた嵐が来るかもしれないような不吉な感覚は監督にとっての戦後の感覚だったのかもしれない。そして、次嵐が来る時にはもはや嵐を手懐けるような魔術、そしてそれに対する予感は禁止され、存在しなくなっている。

老人と主人公以外の人々は古くからの認識である魔術や予感の存在、そして海が超自然的な存在であることを半ば自分達の脳内から消すように、無視するようになっている。それは、同じく戦争を記憶から消去しようとしている人々を象徴しているようにも、近代以前を忘却しようとしている人々を象徴しているようにも見える。

そもそも、この映画で描かれる世界は現実から遊離したようなものとなっていて、漁に出たはずの婚約者は嵐が止まった瞬間なぜか主人公のいる老人の家に現れる。そう思うと、静止画だった人々が嵐の訪れと共に動き出す姿は、一度巻き戻してまた嵐の訪れからやり直しているように見える。もし一度失敗しているとすればそれはラジオの予測、科学を信じたからであり、それに対して魔術によって嵐を止めるという、こうなればという願望のような映画となっているのかもしれない。

サイレント期の演出的な方法とトーキー期のドキュメンタリー的な方法を併せ持った作品として、この監督の集大成のような作品だと思う。また、なり続ける風の音はミュージックコンクレートが影響元にあるらしい。トーキー以降、ブルターニュを舞台にし始めてからは映像と歌の融合をはかってきた監督のように思うし、それは一瞬聴こえる歌にも感じられるけど、この独自の風、ラジオの音と映像の感覚はその発展なんだろうと感じた。

嵐が何の象徴であろうと、忘却され失われていく超自然的な何かをフィクションの中で復活させる映画なんだろうと思う。そしてそれはこの監督がずっと映像に収めようとしてきたものであり、この監督にとって海を通して見えていたものなんだろうと思う。その超自然的な感覚が集大成的な方法で映画として撮られていて、そしてそういう映画の超自然的なオーラもまた失われていくと思うと最高な映画だと思う。

この監督の『三面鏡』を見た時にアントニオーニの『欲望』の最初にある映画みたいだと思ったけど、この映画に関してはアントニオーニの三部作と非常に近い主題、映像的な感覚を持っているように思う。
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