Ricola

小原庄助さんのRicolaのレビュー・感想・評価

小原庄助さん(1949年製作の映画)
3.8
損得勘定で人と接することが一切ない「小原庄助さん」こと杉本左平太は、自分の身を削ってでも常に世のため人のために行動する。
そんなもはや自己犠牲精神の持ち主の彼の生き様と村の人々の朗らかさが、彼の心のあたたかさと現実の冷たさというそれぞれの側面がしっかり描かれた作品である。


この作品で特に印象的な演出は、カメラの平行移動による長回しの演出である。
長回しによって、小原庄助さんのお屋敷の状況がわかりやすく提示されるとともに、彼の慈善活動的な行動の結果もそこに示されているのだ。

例えば、お裁縫教室で女性たちがミシン作業にいそしむ様子が映し出されるシーン。
小原庄助さんが家の中を移動していくが、それを平行移動で距離を保ったままカメラが彼を追いかけていく。
彼はそのまま外に出てお手伝いさんと話した後室内に戻る。するとカメラも平行移動を再開し彼を追うが、部屋の境目でカメラは彼を置いてお裁縫教室の方に向かっていく。さらに教室を通過すると、お手伝いさんと来客者である紺野が渡り廊下を歩く光景が映されることで、長回しがここで終了する。
このシークエンスから、長回しで人物を追うことで家の構造を明かすようなカメラワークが、自ずと状況説明の役割を担っていることがわかるだろう。

他にも、家の外から中を通って、庭まで出ていき慌ただしく人々が動いているシーンや、声が近づいたり遠ざかっていく聴覚的情報までしっかり映し出される。こういった、端的だが絵巻物のような美しいグラデーションのような演出に魅せられる。

また、小原庄助さんが生み出したカオスな状況を表すのに、音とリズムが利用されている。
先生が生徒たちに「優美であること」の重要性を説く、ミシンのガタゴトという作業音が鳴り響くお裁縫教室の隣では、お坊さんがお経を唱えて木魚を叩いている。
お坊さんの木魚の音に負けまいと、先生は生徒たちを鼓舞し始め、ミシンを動かす勢いが強まる。
それからミシンを踏む足元と叩かれる木魚のショットが交互に映し出されるのだ。
小原庄助さんが自分の家のスペースを、どんな人にも提供してしまうからこそ、全くジャンルの異なる団体同士が異色のコラボが起こってしまうことが表されている。

さらに細かい部分でも、清水監督の手腕が示される美しいシーンが多々見られる。
例えば囲碁のシーンにおいて、囲碁をする小原の手の動きではなく、彼の膝元に置いてあるお茶周辺にフォーカスされる演出。
少年が小原の飲んだお茶の茶碗を取って、お茶を注いで蓋をかぶせる。
囲碁の手ではなくあえて少年の手の動きを見せるのは、それが囲碁の手を彷彿とさせる婉曲表現として演出されているからではないだろうか。

そして前述の通り、小原庄助さんの行いが善であるにも関わらず、現実問題の残酷さも描かれる。
雨が虚しさを表現する要素として活かされている。
昔の繁栄ぶりと現在の衰退ぶりの違いを示すものが、雨の中のシーンで明かされるのは雨の効果を狙った上だろう。
まずは綺麗に並べられた酒瓶に対して、その横には無造作に置かれた朽ちかけた酒樽のショット。
さらに縁側で雨をぼーっと見つめる小原が、傘をさして外に出て綺麗に並べられた名前の木札を見つめるシーン。
その綺麗な木札のショットの後に、自分の一家の木札は2枚しかない上に、ボロボロであることを道場で確認するショットが挿入されるのだ。しまいには小原庄助さんはこのたった2枚の木の札さえも雨降る川に投げ入れる。
いつもあっけらかんとしているはずの小原庄助さんでさえも、この厳しい現実から目を背けることはできないことがわかる。
しとしとと降り続ける雨が、この悲惨な状況を強調するようでもある。

「引き受けたからにはとことんやらないと」
「他人に損かけるより自分が損したほうがいいさ」
そんな言葉を口にする小原庄助さんの性格のとおり、のびのびとあたたかで笑いありの作品である一方で、その性格が災いして起こる現実的な側面も描かれており、そのバランスの良さがこの作品の面白さであると感じた。
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