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金曜日の夜のニューランドのレビュー・感想・評価

金曜日の夜(2002年製作の映画)
3.6
✔🔸『金曜日の夜』(3.6p) 及び🔸『ショコラ』(3.5p)🔸『ホワイト·マテリアル』(3.7p)『』▶️▶️ 

 前に何回か書いたが、ドゥニもどちらかというと苦手な作家だ(映画というのは具体的に丸ごとドンとくるので、よほどピッタリか或いは意外な異形を意識しないと、惹かれ·好ましさへ向かわないものなのかも知れない)。映画の艶やか深みと弾け磁力の迸りそのもの『美しき労働(仕事)』、小振りの演劇要素の粋を尽した『レット·ザ~』らは文句なく圧巻の傑作で、『侵入者』『ホワイト~』らもそれに次ぐが、生来の天才というより、創り上げる丁寧慎重さと完成時の加速仕上げが凄い人なので、努力の跡がしんどく感じるのかもしれない。そもそもあまり観ていないし。
 『金曜日~』は全く初見参で、タイトルに興味を惹かれた。手堅い後の2本を合わせると、大変な散財だが、遠方に出掛けついでだ。この作家はいろんな試みをしているので、『35杯~』『レット·ザ~』らに似たどこかで観た事がある+それが気にならない一気呵成の作を、これに観る。まさに既視感からスッとかつ、手管を楽しく見れた好編だ。すっかり感心してしまった。
 パリの夜中~朝の屋根敷きつめと赤く染まり出す空、狭い車内や安ホテルの細部並べざるを得なさ、顔アップや背ごし(左右パン頻繁)、或いは窓越し、車窓や歩きからの揺れ動き視界、極らない望遠アップ各種の連続、ネオンやライトやウィンドウ絡む艶かしO·L普通に、そうかと思うと勝手な進行微睡み幻想シーン介入、現実シーンでもカット間は断裂感、詰めに詰めた車らの捌きの超·人工的窮屈さから逆走グングンで何故か空きまくってる道路界隈へ、性交進みの現実と先立つ欲望や嫉妬想像もせっかちストレートで差なし、公共交通ストによる進行未来無しからどんどん個的スッキリ世界へ解放。
 イメージとして、’60年代半ばから’70年代初頭のフェリーニのセット内不条理夢幻的公道みたい(こっちは低予算のロケ捌きなのだから、そのまんま映画セオリー壊しと驚異マジカル工夫になる)で、そこに『アフターアワーズ』的小市民アタフタと、『ジョンとメリー』的思わず深い出会頭の恋が加わってくる。センスの良さを敢えて微笑ましくアッピールしてるみたい。
 引越し段ボール詰め込んでの、カレシのアパルトマンへの、夜間車移動。公共交通ストで行き着けぬかもと、友人宅泊まりのつもりも、そこまでも行けず家に戻ろうとしてて、歩き進まぬ中年も色っぽさ男を拾ってやるヒロイン。見失い·食事·ホテルらの場へ入って行って、瑞々しい若さ·辿々しさと大胆さの、いっときで過ぎ去るも忘れがたい開花へ。
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 処女作『ショコラ』は20数年ぶりだが、前は気付かなかった、アフレコが合っていない所が後半多発で、巨匠も初期は不完全環境の仕事に甘んじてたんだな、と微笑ましくなったが、やはりいい作品だ。カメルーンの、独立前に住んでた少女時代の地を、いま再来して、黒人の位置、真の故郷に想いを馳せる、フランス人の若い女。その地の管轄官として、広く理解ある心で現地民と接してた父の奥地出張の間や、飛行機故障不時着で修理期間中滞在の差別意識剥き出しの同身分の友人らの傍若無人ぶり期の、少女だった回想がメインに、様々矛盾の萌芽が静かな展開の中に滲みくる。
 少女と現地を違和なく繋げてくれ、より広い世界に目を開かさせてくれたは、優しく公平もどこか鈍感な父よりも、父が妻子を託せる位に信頼してた、黒人の召使いだった。只、彼はあまりに聡明で、誇りを秘めた、毅然とした男だったので、現地に馴染めない妻や、父と同格同僚には、自戒や気後れ、更には苛立ちや暴力迄生んでしまう。独立は必定·間近な中、ヒリヒリもなにか懐かしい時代。
 ドゥニのタッチは、大人しめ·端正·静かめながら、半円を描く長いパン、逆に浅く廻り込む、りれ緩やか寄るや横へ(フォロー)、らが状態を静かに揺るがしているが、何より人と人の居る位置·場(建屋と仕切)に関する構図·カット割·対応タイミングのズレ、に敢えて冷ややかな空きを与えて、秘められた力や緊張·不条理を何もなげな中に響かせている。やはり、以前観た時にも感じた、組み立てきってない、計算した脆弱さが印象的な佳品。
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 再びアフリカの一国の内乱下の白人小社会を描く『ホワイト~』になると、小廻り·小細工も構えたカットに比べても軽くなく、自然の捉え·切り取りもサイズに拘らず周りから囲われきり、人間関係もドラマと現実がせっつき合い、ゆとりも緊迫も差異なく人のせせこましさに繋がり、人為を越えた無為の力も厳然とうねり、以前に増して巨匠然のタッチのかくあるを感じる。日本語スーパーで改めて見ると、悪役の魅力さえ捨てきった、I·ユペールの小物に徹しぶりが作品に寄与している。
 細かで多彩な角度·構図取りも、自然と美術·小道具を差異なく疲弊させ·雄大地平も持ち、フォロー等の移動やパンにスタイル化する押さえを持たさず、音楽·音響に緩みなく、人道的·描破的にも心を裂くような殺戮のナチュラル描写、個人と家族·組織と自然·国家疑似国家絡みの何が抜き差しならぬを決めてるかわからない進め方、人間(性)の足元からの崩壊危機を描き抜いてる。
 現地人は与れないコーヒー農園を、管理人から所有者を奪い譲られての、最初の収穫に目の色が変わってる、フランス人女。ある距離持ってる、彼女の夫が、彼女を彼女自身から救うために、撤収帰国へ向かわせんとしてるは、既にフランス軍は保護を放棄し去り、現地の道具·資源を供給する白人経営店舗も火の車、行政機関への約束取付も世情次第であやふや、そこらや学校らを蹂躙し押さえる以上に無意味な殺戮を続ける若輩者主体の反乱軍、夫の黒人女との幼い子はともかく·主体なく流れ退廃し·神憑り的狂気に染まってく夫との成人してる息子、世情の安定を約してる政府軍は反乱軍の狂気を見過ごし·それ以上の殺戮を彼らや周囲に加えてく、政情不安からこの地や農園にから離れ逃げる現地人の傾向、それでも金の力でかき集めも作業不全·報酬望み以前となるとまた暴徒化、の体感と現実危機から、の事(。利害関係は単純でなく、なんてなく反乱軍の怪我したリーダーの匿いっぱなし、も自然に)。
 ドゥニが助監督として有能に寄与したという『パリ·テキサス』や『ベルリン天使の詩』より、映画として遥かに本格だと思うし、それでも彼女と同年代だと、ジョー·ダンテの方が個人的にはっきり好きなのは、観察と経験の厚みを磨き上げた手腕より、何にも寄りかからない気まぐれな天才の方に、私のような凡才は気を惹かれるせいだろうか。
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