ーcoyolyー

アイヒマン・ショー/歴史を写した男たちのーcoyolyーのレビュー・感想・評価

3.7
「私たちは口を閉ざしていた でも聞かれる“あなたは誰 何があったのか?” それでありのままを話すと“ウソだ 作り話だ”“そんな事あり得ない” こんな話が作れたらハリウッドに行くわ」「だけど皆は信じてくれず 私たちは沈黙した 寝言のほかは」「裁判が始まってからその人たちが耳を傾けてる バスで店でカフェで彼らが聴いている 今朝は市場で少女に番号のことを聞かれた 世界中の人が見てるんでしょ?」

これ。これよくあるしよくやるやつ。外面の良い人間から虐待を受け性暴力を受けた私はよく知っている。誰も私のことを信じてくれない。だから何も話さなくなる。地位や人望のある人間の加害はたとえそこに動かしようのない証拠があろうとも信じない。自分の平穏を轟かすものを認めないようとしない。それが人間。

今、私たちはここで語られていることを当然のものとして受け止めていますがホロコーストや原爆の話ってこういうところでこういう人たちが一つ一つ逃げようもない状況証拠を積み上げてきたからこそ現状があるわけで、その積み重ねが一つでも欠けていたらなかったことにされていた可能性だって高いわけです。語るも地獄、語らぬも地獄。その地獄の選択肢の中で語る方を選んだ人たちの弛まぬ努力によって私たちがそれを常識とできているのです。当然ですが語る地獄を選んだ人、語らぬ地獄を選んだ人、それぞれの選択は尊重されるべきことで、外野はただその選択を受け入れるだけしかできないし受け入れなければなりません。

ただ少し気になったのは、監督していたレオの感性本当に当時からこういう感じだった?ってことです。この人ハンナ・アーレント史観に基づく物言いしてるけども『エルサレムのアイヒマン』発表当時のハンナ・アーレントに対するバッシング考えるとこの監督も撮影当時はその感性は持ち得なかった気がするんだけど。実際に彼も裁判を見ているうちにハンナ・アーレントと同じようなこと思っていたのだろうか。挿入されていた実際のアイヒマン裁判の映像は変に主観を交えないように虚心坦懐を心がけていた撮り方のように伝わってくるのだけどな。そこちょっと盛ってね?とは気にかかるものがある。この映像から見受けられるアイヒマンの凡庸さ・陳腐さってハンナ・アーレントの書きぶりとも少し違って国会で政治家の尻拭いやらされてる東大出身官僚的な人物のように思えたので、そこのちょっとした違和感を伝えられているのはとても重要で、だからこそ変にハンナ・アーレント史観に毒された作りになっているのは残念だった。ハンナ・アーレントなんというかアイヒマンの人間像を矮小化する思ってたより主観が強い書きぶりだったんだと気付かされるしこの記録映像を記録した人が実際に撮ったフィルムとドラマ部分の描き方や熱量のベクトルが微妙に噛み合ってないように見えた。
ーcoyolyー

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