王道ミュージカルの皮を被った『狂気』映画である
主人公2人は終始、自分が世界の中心であるかのような描写が非常に多い。
自分が望む以外の仕事(カフェバイトやピアノでクリスマスソングを演奏するなど)は適当にあしらい、周りの話は聞かず(パーティーなど)、彼に見つけて貰う為に上映中のスクリーンの前に立ち、自分達2人以外をそれこそモブキャラであるかのように立ち振る舞う。
ミアの着るドレスは一昔前のハリウッド黄金期を思わせるデザインで、まるでそのシーンだけはかつてのハリウッドで生きているように見える。また、セブの訪れるジャズバーは黒人の比率が圧倒的に多く、20世紀ならともかくスマホが登場する本作の時代背景でもジャズバーってあんなに黒人の比率が多いのか?と思ってしまうほどだ。どちらの観点からも、まるで2人の理想にあわせて時空が歪んでいるように見えてしまう(この辺りは自分の誤解である可能性が高い)。
加えて、演出面でも自分たちだけにスポットライトが当てられるのも当にその表れであるように感じた。
さらに、2人の努力しているシーンや実力(これに関しては女優としての実力)があまり描かれず、しれっとかつ巧妙に場面が切り替わったりミュージカルシーンになったりするのだ。
そしてついに最後、その2人だけの狂気が最高潮に達する。バーで起こる最後のミュージカルシーンは、まるですべてがセットで自分達2人だけが物語の主人公であるかのように周りがただ賞賛し肯定する人生が流れるのだ。
エンドシーンにいたっても、ミアがバーから退場してからセブが次の曲を「1、2、3、4」とコールをかけてはじめるがこちら側(観客)にはいっさいその演奏が(弾き初めさえも)聞こえない。こんなもの、作り手が2人の世界が終わったので物語る必要がないと言っているようなものである。このように、最後の最後まで、2人だけの世界で作られている。
普通ならこれらの点は作品として良くない点であるように考えられるが、『セッション』を作ったデイミアンチャゼルが監督をしたとなると話は変わってくる。『セッション』でも閉じた「分かる人たちだけの」世界を表現していた。
そのような、『自分たちだけの世界』とミュージカルという脈絡なく道路や施設などのパブリックな場合で突然踊ったり歌い出すというある種の独善性なものをこの映画は掛け合わせた。結果としてそれらが、非常にマッチしており大きなエモーショナルを引き起こしていた。
デイミアンチャゼルの性格(作家性?)が、フルに表れている映画であり、大変満足できた。
言わずもがな、これらを表現できたのは素晴らしいミュージカルがあったからである。